日本人とリズム感【樋口桂子】

日本人とリズム感


書籍名 日本人とリズム感
著者名 樋口桂子
出版社 青土社(299p)
発刊日 2017.11.24
希望小売価格 2,376円
書評日 2018.03.19
日本人とリズム感

自分自身がリズム感に自信が無いのはともかくとして、リズムが文化論として成り立つのかも想像したことはなかった。所詮、リズムとはノリが良いかどうかであり、「好き」か「嫌いか」という落ち着きどころになってしまう様に思っていたので、リズム感を構造的に語るとはどういうことなのか興味を持って本書を手にした。

著者が日本人のリズム感を考える契機になったエピソードが紹介されているのだが、極めて象徴的で面白い。それは、来日したイタリア人とタクシーに乗った時に、ラジオから流れていた都はるみの「あんこ椿は恋の花」を聞いて「この女の人は腹が痛いのか」と真面目に質問してきたという。喉に無理なく流れるような唱法のベルカントオペラの国の人からすると、喉から絞り出すような都はるみの歌には驚いたようだ。もうひとつは、イタリア語通訳として同乗していた友人とイタリア人との会話で相槌の打ち方の違い。日本人の友人は相槌を打つときに首を下向きに振る。しかし、イタリア人は首を上に上げる。こうした声や相槌といった所作・動作が示す日本人の特性はどこに由来しているのかという疑問から本書は始まっている。

考えてみれば、自分自身で「日本人的な」とか「西欧的な」と理解している言葉や動作の理由を考えた事はあまりない。原因にたどり着く前に「文化」という言葉で括ったり、「国民性」や「個人差」という言葉で納得してしまっているのだと気づく。普段、自分のリズム感を考える人はまず居ないと思うが、それは私たちの身体の深層にこびりつき生理感覚になっているからという、著者の説明も納得がいく。この「生理感覚」を解き明かしていくために樋口は持ち前の視野の広さと知見を駆使して考察を加えている。それだけに、読み手としては全ての領域を理解し、納得することの難しさも感じてしまうのは致し方ないところ。日本人の音の聞き取り方とリズムの関係、身体の動きや呼吸・発声の観点からリズム感の方向性、心情・感情とリズム感の関係、「もの」や「こと」といった日本語固有の表現による物事の距離認識と空間表現としての絵画、日本人の裏・表感覚と歌謡曲やJポップの関係、「なつかしい」という言葉に代表されるような時間軸から見たリズム感、などが語られている。

日本人が音を聴き、それを表現する方法の特徴とは、例えば「…の音がする」というように、音を出す「物」の名前を付けて、音源が人間や動物であれば「声」と言い、物体が明確でなければあえて「もの音」と「もの」を付けて表現する。これは音の出処をいうのではなく、「何か音を出すものがある」という意味であるが、そこで「もの」が示す意味は「もの静か」や「もの悲しい」という使い方もある様に、断定しない何かを表現している。これを樋口は「気配」と言っている。

日本語の発声は口を閉める方向で舌や口を動かさず声道を閉め加減にして声を出す。これがいわゆる「ダミ声」となる独音の倍音である。ウナリのない整数倍音を求める西洋音楽と違って、日本の倍音はズレから生じるウナリを伴う物売りの声や浪曲に代表されるが、寺の鐘もまたウナリの巾が広がっていく雑音的な要素が多い。これは倍音の可聴域を超えて無意識の領域に進んで行く。こうして、「気配」や「気分」という概念と日本語を深堀りしていく。西洋のリズムの語源はギリシャ語の「流れ」であり、「拍」の語源は「連続したパルス」という意味からも動の気分。一方、日本人の気分とは川端康成の「山の音」に代表される人間の音の感覚を「見て」「聞いて」「触れて」「嗅ぐこと」で音の気配を描いているように「静の気分」という結論にたどり着く。

日本人のリズム感は南方語(マライ、ポリネシア語)と類似しており、その共通項は稲作であるという研究が紹介されている。稲作の必要な動作は鍬を大地に向けて打ち付けるという動きが基本であり、田植や畑を耕す動きはゆっくりとした速度と後退的方向感を生む。そして、皆が一斉に同じ動作をするリズムとして最初に強拍を置いて二拍とその反復形の四拍のリズムの共有が特徴である。こうした特徴を持つ日本人の所作として、例えば、数を数えるとき日本人は指を内側に追っていく。一方、西欧人は握った指を親指から開いていく。ここにも西欧人の上向き、開放型の方向感があらわれており、その違いを樋口は冠詞の存在に求めている。冠詞は次に来る名詞(の発音)の準備を意識させる効果が有り、シンコペーション(裏拍)のタイミングで相槌を打つことになるという。正拍の日本と裏拍の西欧という対比である。

日本語の音の単位(モーラ)についても興味深い指摘している。日本人は音節とは別に、子音と母音を一つの単位として、語音が一定の時間の長さを持ったもので認識しているというもの。「法隆寺」は「ホ・-・リユ・-・ジ」と5モーラで数え、拍子を作っていく。このモーラによる拍子も二拍、四拍に対応していて、言葉の省略形である「ナツメロ」「ドラクエ」等も、これに従うものが多い。音楽で言えば、日本人は弱拍で始まる曲も、強拍始まりのモーラで数えて曲のイメージを捉えているという。例えば、「運命」の出だしの口真似は「ジャジャジャジャーン」というが、譜面上の最初は休符で始まるので「ん・ジャジャジャジャーン」とすべきだという。

この強拍と弱拍の捉え方の違いが表れているもう一つの例として救急車のサイレンの聴き方を指摘している。日本人は「ピーポー・ピーポー」と捉えるが西欧人は「ポーピー・ポーピー」と聞いている。正拍打ち、4拍子の典型として1960年代の学生運動のシュプレヒコールを例に上げている。リーダーが「アンポッ」と言えば「ハンタイ」と繰り返す。なるほどと思いつつも、文章を読み進むと、1980年代になると若者達の気勢の上げ方はラップに代表される裏打ちになっていくという。団塊の世代としてはまったく気づかない間にいろいろな変化が起こっている様だ。自省的に考えれば、多分そうした変化に気付いても、「判らん」とか「何が良いのか」といって変化を否定的にしかとらえない自分が透けて見えるような気もするのが辛い。

日本語の擬音は、繰り返し言葉(「キラキラ」、「シンシン」)で「もの」を音声で模写したものであるが、「もの」を真似ているに見えて実際には「状態(こと)」を表している。そして「状態(コト)」の表現に独特の意味を持たせている。「あなた太郎さんのコト好きなのよね」という言い方の「こと」は輪郭をぼやかし、想像の領域を広げる。この「こと」は英訳するのが難しい言葉のひとつだろう。「この」輪郭をぼやかす空間把握は絵画における表現の特徴となっていく。俵屋宗達の風神雷神図の真ん中には何も描かれていない大きな空間があるし、尾形光琳の紅白梅図では蛇行して流れる川が絵の中心をぼかすように描かれている。こうした、「中空」の存在は西洋画のランドスケープには見られない。この議論は、18世紀の浮世絵の「浮絵」に代表される遠近感の強調にたどり着く、それは橋・道・階段などを中景として表現し、近景と遠景を繋いで、まさに遠景と近景の直接対決が描いている浮世絵は現代の我々が見てもユニークな構図に惹かれるのはこうした点があるというのは面白い。

「日本人は影に隠れる裏は明確に自身を表さないで漠然と本意を示唆することになる。つまり、空気を読むことに日本人は鋭敏であり続けた。明示されない裏は見えないところを含めて全体をぼんやりと見やる見方を強くさせる。……日本人は『花』と言えば桜をさす。花見とは桜の花弁をじっと見るのではなく情景全体をボンヤリと感じ取る。一方、梅は香りの漂いに身を置いて梅の香りの気配を感じるのである。こうした、全体をとらえる『遠くを見る眼』は意識として前方ではなく内向きの、下向きの閉ざされたものの中へ、進行方向とは逆の方向に向かう。こうして裏に向かう日本人のリズム感はゆっくりと、じっくりと過去へ向かうものになった」

本書では、まだまだ広く、音楽的、舞踏的、言語的、所作・動作的、絵画的、文学的などの分野と歴史を組み合わせた統合的な文化論が展開されていて面白い本に仕上がっている。しかし、これらの広範な分野の分析のすべてを読者が著者の意図通りに理解できるかというと難しい本だと思う。一読者としては雑学的興味から多くの納得と新たな発想のヒントが得られたことだけでも、充分満足でき、楽しい読書であった。(内池正名)  

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