ジャズを求めて60年代ニューヨークに留学した医師の話【中村 宏】

ジャズを求めて60年代ニューヨークに留学した医師の話


書籍名 ジャズを求めて60年代ニューヨークに留学した医師の話
著者名 中村 宏
出版社 DU BOOKS(320p)
発刊日 2016.04.28
希望小売価格 2,700円
書評日 2016.06.12
ジャズを求めて60年代ニューヨークに留学した医師の話

サブ・タイトルは「私のJAZZ黄金時代体験記」とある。1933年生まれのジャズ好きな若者が医学部を卒業後、1960年代のニューヨークに留学して学びつつ、ジャズを体感したという経験はこの世代ならばこその貴重なもの。レジデント(専修医)として62年から63年、リサーチ・フェロー(特別研究員)として66年から68年という二度のニューヨーク生活における医学界とジャズに関するトピックスを精緻に表現している。ある日のジャズクラブの出演グループのメンバーと演目がキッチリ書かれ、その感想が几帳面に綴られている。これは「体験記」というよりは「記録」という言い方の方が似合っていると思う。

読み進んでいくと、医師という職業のために真っ当に費やしている時間と努力に加えて、趣味であるジャズに対してとことんのめり込んでいく姿に対して、ジヤズ・ファンといっても一般的なレベルをはるかに超えていることが良く判る。私自身ジャズが好きで高校生の頃から聴いているが、その熱中度というか集中度の違いは明らかだ。ただ、著者がジャズにのめり込み始めた時期のエピソードはそうした違いを超えて親近感が持てるものだ。家庭にSP盤の音楽があり、ラジオからのジャズを聴き、だんだんと、来日したジャズプレーヤーのコンサート等に行くようになる。そうしたステップはジャズを好きになっていく常道だと思うし、家庭環境も重要な要素であるということも事実だ。

著者は若い頃から「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」というジャズ愛好団体の会合に出席し、そこで出会った慶應大学医学部講師の牧田清志(のち教授/ジャズ評論家ペンネーム牧芳雄)に惹かれて、「慶應大学医学部に行けばジャズが聞ける」という学部志望動機はほほえましいし、入学式の日のクラブの勧誘呼込に応えてKLMS(慶應ライト・ミュージック・ソサエティ)の鑑賞部に入部というのもその光景が目に浮かぶ様だ。とは言え、普通のジャズ好きのレベルを超えて行った軌跡は、ホットクラブでの牧芳雄や油井正一といった、当時のジャズ評論の本流たちとの交流によって育まれた鑑賞眼、そして本書の白眉である60年代のニューヨークでのジャズに接するチャンスを自ら掴んで行ったことがその結実なのだろう。

日本で絶対に生で聴けないようなスタープレーヤーの演奏を聴き、死んだと思っていた伝説のプレーヤーがクラブで演奏し、現在のジャズ界で中核をなしているブレーヤーのデビュー時代に遭遇できる。そういった広い領域のジャズに直に接することの出来た時代だったという意味で著者は60年代のニューヨークを「JAZZ黄金時代」と言っている。しかし、当時のアメリカでも、まだまだジャズはエスタブリッシュメントから認知されていなかった様子が象徴的に語られている。

「1962年からマウント・サイナイ病院でのレジデント(専修医)としてのトレーニングが始まった。……自己紹介をした時、私は臨床医学の研修に来たのと同時に、本場のジャズを楽しむのが第二の目的だと言ってしまった。その集まりが終るとチーフ・レジデントにすぐ呼ばれジヤズが好きだと決して人前では言わない様にと注意された。1960年代初め、特に医師のような世界ではまだジャズは一般的に広く認知されておらず、また、あまり上品な趣味とされていないことを知り、愕然とした」

アメリカの自身の内で熟成させた音楽にもかかわらず、ジャズや黒人に対する偏見は依然として強かったという事なのだろう。歴史的には、後追いでジャズを吸収する立場にあったヨーロッパや日本におけるジャズを前広に受容してきた状況とは明らかに異なるものだったに違いない。時代の風を体感する象徴という点では、ジョン・コルトレーンの亡くなった1967年7月17日の記述に惹かれた。その日、ジャズ専門のラジオ局は一日中コルトレーンの追悼番組を流し続けるなか、セントラル・パークで行われたジャズコンサートに行ったときを描いている。

「珍しく定刻に司会者が出て来て、中央マイクの前までゆっくり歩いて進み、おもむろに『偉大なサックス奏者、ジョン・コルトレーンが今日亡くなりました』というアナウンスがあった。その瞬間会場からウォーといったどよめきが一斉に起こった。……この日のジミー・スミスの演奏は心なしかいつもの彼の派手で、快活な演奏と異なり、物静かな感じだった。コンサートを聴き終ると、いつもすっきりした気分になるが、この日は何となく憂鬱だった。……当日のお客さんは同じジャズ・ファンでもコルトレーンとは全く正反対のジャズ愛好家だったが、口々にコルトーンのことを話しているのを耳にした。……一般のラジオ局でのニュースでは特に彼の死は報じられなかった。……コルトレーンはジャズの本道から出発して、テナーサックスの不動の地位を築き上げたが、それに満足せず、ニュー・ジャズの道に入り込んだ。一般のファンを後に残して、ずっと先を走り続けてしまった」

著者のジャズ歴でいえば本流からスタートして疾走していくコルトレーンを同時代的に聴いていたと思う。「先を走り続ける」という表現を使ってはいるものの、「ファンの支持を失っていった」というニュアンスもなにやら感じさせる文章だ。とはいえ、ニューヨークに滞在していたというライブ感がひしひしと伝わってくる。片や、私は Blue TrainやGiant Stepsに代表される50年代後半のリーダーアルバムから65年のLove Supremeに至る数々のアルバムを出会いからほんの2年程の間で聴いている。それはコルトレーンが変化していく時間差を感じ取るのではなく、多様なコルトレーンを一挙に聴いているということなのだ。加えて、彼の死の報については即時性をもって聞いたと言う記憶はない。情報の伝達状況も今とは異なっていたし、ニューヨーク以上に日本において一般メディアが彼の死を伝えることは当然なかった。

科学の一翼を担う医学における、技術とカルチャーの交差する領域での体験の中で日本とアメリカの違いを指摘している終末期医療と臨床医学についてのエピソードは興味深く読んだ部分である。また、半世紀を振り返って、「医学」の着実な進歩に比較して、「ジャズ」は進歩したのかと著者は問い掛けてもいる。演奏技法の進歩はあったとしても、多くは表現方法の変化ととらえるべきだし、最近の若者の熱中する「ジャズ」になにか乗り切れない感覚があっても、あれはジャズでないとは断言も出来ない。著者はジャズの必須要素を「楽しい音楽であること、ブルージィーなリズム感ないしはスイング感があること、アドリブの妙味」としている。「団塊の世代の僕らのジャズ」の定義としてもそれは納得感がある。その納得感こそ、著者の言う「年配のジャズ・ファン」の集合に私も入ってしまっているのかと痛感するが、それでいいのだという心の着地をさせてくれるのが読後の心地よさだ。

文化は、その土地で生活してみて初めて判ること、理解出来ることも多い。それほど文化は時として空気のようなもので、理論や歴史から学ぶ限界がある。私は仕事の中で各国の人々と議論しつつカルチャーギャップに戸惑ったことも多い。仕事を離れ、時が過ぎれば、そのギャップも懐かしい思い出を超えて、文化論として語ることも出来る。そうした意味からも、本書は著者の貴重な「体験」を「価値」に昇華させるプロセスの生真面目な記録に他ならない。(内池正名)

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