書籍名 | 残酷な遊戯・花妖 |
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著者名 | 坂口安吾 |
出版社 | 春陽堂書店(304p) |
発刊日 | 2021.02.17 |
希望小売価格 | 2,640円 |
書評日 | 2021.04.18 |
坂口安吾が書いた未発表小説の生原稿が見つかった。昨年秋、業者向けの古書市で神保町の古書店主が入手したという。400字詰め原稿用紙で41枚。戦前に書かれた中篇小説の前半らしいが、何らかの事情で中断され未完。題名は書かれていない。編者(浅子逸男・七北数人)が原稿に書かれた言葉から「残酷な遊戯」と名づけ、安吾と関係の深かった春陽堂書店から刊行された。一緒に収められている「花妖」は、中断した「残酷な遊戯」を原型に戦後、人物や設定の根幹は残しながら樹勢を大きく広げて発表され、これも未完に終わった長篇小説(の一部)。この2篇のほかに戦前の短篇4本と、編者による解説が収められている。
小生、安吾をきちんと読んでいるわけではないけれど、30代のころ、好きになって代表的な小説とエッセイの何冊かに目を通したことがある。未完の「花妖」は全集にしか収録されていないので読んでない。そんなわけで、新発見の小説がどんなものか興味があった。結論から言うと、小説として断然面白かったのは「花妖」。「残酷な遊戯」は、その原型として比較しながら読むと、安吾の発想とそれが戦争をはさんでどう変化したかがよくわかる。
「残酷な遊戯」は、こう始まる。「私が諸国に居を移して、転々と住み歩いてゐたころ、ある町で、美貌をうたはれた姉妹があつたが、妹が姉をピストルで射殺した事件があつた」。安吾は少年時代から推理小説に親しみ、戦後に『不連続殺人事件』などの実作もあるから、そんな資質の片鱗だろうか。犯人を最初に明かす倒叙法で人物と場所を設定し、なぜ妹が姉を射殺することになったかを語ってゆく。
地方名家の令嬢である姉妹は姉が雪子、妹が千鶴子。雪子は英文科を首席で卒業した聡明な女性だが、妹の千鶴子は土地の女学校をお情けで卒業した「美しい無」。この姉妹が一人の男に夢中になる。その男、青山は金持ちの一人息子で、二十歳すぎからブラブラしている「頭の悪い坊ちゃん」。青山と妹の千鶴子は馬があって遊び歩いている。雪子は邪険にされていよいよ恋に狂い、青山に「燃えに燃えて恋は人みて知りぬべし嘆きをさへに添へて焚くかな」の古歌を贈り、千鶴子はそれをまた人前でからかって姉を侮辱する。やがて青山と千鶴子は結婚する。
ここから雪子の「復讐」が始まる。雪子は、東京から帰ってきた友人の信代を青山に引き合わせる。信代はソプラノ歌手だがせいぜい「二流の唄い女」で「荒れた感じ」を漂わせている。新婚の青山が信代にのぼせあがり、信代のパトロンになろうとする。一方、雪子は地元政財界の黒幕、大河原に接近し、こちらからも金を出させて信代のパトロンを青山と競わせようとする。さて……と、これから面白くなりそうなところで小説はなぜか中断。ここまでの展開から、二人の姉妹の心理戦を軸として、地方都市(安吾の故郷である新潟らしい)を舞台に彼の言うファルス(道化)的な群像劇を目指したと、とりあえず言えるだろうか。
「残酷な遊戯」が書かれたのは、編者の推定によれば1939(昭和14)年から41(昭和16)年の間。そこから戦争をはさんで「花妖」は1947(昭和22)年に東京新聞で連載がはじまった。基本的な人物設定はよく似ているが、舞台は焼跡の広がる東京に変更されている。
姉の名は「残酷な遊戯」と同じく雪子。妹は節子。ただ、妹が姉を射殺したという設定はない。雪子は「理知的で陰気な娘」。節子は「陽気で遊び好き」の「頭は悪いが社交の才気は横溢」した娘。この姉妹が、戦災で同居することになった伯母一家の息子、洋之助に二人して惚れる。洋之助は「小金持ちの一人息子の甘やかされた典型的な能なし」で、「優柔不断なくせに弱者に対しては強圧的な現実家」。どこぞの政治家を連想させなくもないが、女性崇拝の気味がある安吾の小説には、こんなちゃらんぽらんなダメ男がよく登場する。文学に身を捧げる一方、日常生活はでたらめだった安吾の一面を戯画化してみせた人物造形と言えようか。洋之助に焦れる雪子が「燃えに燃えて」の古歌を贈るのは前作と同じ。そして洋之助は妹の節子と結婚する。
原型である「残酷な遊戯」の語り手は姉妹の家に住み込む書生で、姉に密かに好意をもつ彼の目を通して、姉の雪子に同情的な眼差しで二人の行動が描かれる。姉妹の父である弁護士は、物語のなかにまったく登場しない。これに対して「花妖」では、やはり法律家である姉妹の父が重要な役どころで登場する。焼け出された一家は伯母一家にころがりこむが、父の木村修一だけは敗戦後も焼跡の防空壕に一人住んでいる。「俺がこの穴ボコで暮らすのは、余生を茶化す慰みといふ奴だ」とつぶやく修一には、蒲田で空襲に遭い焼跡の防空壕で暮らすことを考えた安吾自身が投影されているようだ。この小説は三人称で書かれているけれど、空襲で火の海に囲まれて感じた「大きな疲れと、涯しれぬ虚無」(「白痴」)から、それまでの人生に見切りをつけた安吾≒修一の心象が折々に挟みこまれる。
修一の娘の雪子も、「残酷な遊戯」に比べると複雑な性格と行動を示す。恋する洋之助が妹と結婚して、雪子は父の修一に、修一の会社の専務である井上の「オメカケになります」と宣言する。「私はオメカケが好き。なぜなら、オメカケの方が、お小遣いがしぼれるものよ」と父にのたまうあたりは、同じ雪子でも一途に恋に狂う「残酷な遊戯」の雪子では考えられない。
一方、雪子の妹・節子への「復讐」は、前作と相似形。洋之助の家の敷地内にある隠居屋に、雪子の勧めで医者一家が暮らすことになる。その娘、芳枝は雪子の同級生で、雪子は洋之助が芳江に浮気心を起こすのを見こしていた。芳枝は「出来たての素人劇団の女優」で無軌道な娘。「目の隈が深く黒ずみ、あゝ厭だ、生きてゐるのも、と顔が呟いてゐるやうな、沈痛な暗さがあつた」。こんな描写がいかにも戦後的。その「はしたない色気」に洋之助が狂い、妻の節子が逆上する。雪子はさらに、素人女優の芳枝が焼跡でお好み焼屋を開業する資金を洋之助に出させようと企む。その一方、雪子は芳枝を誘って防空壕に父の修一を訪ねる。案の定、芳江は修一とも親しくなり、「オヂサマ。お願ひです。私をオヂサマのオメカケにして。イノチガケ」なんてセリフも飛び出す。
もうひとり興味深い人物が登場する。雪子が妾宅として住む画家のアトリエを、ある日、画家の知り合いで栗原という男が訪れる。三十歳くらいの、「苦味ばしつた色男」。栗原は「闇屋でさ」と自己紹介する。闇屋ですぐ思い出すのは、1946(昭和21)年に発表され安吾を一躍有名にした「堕落論」の冒頭だろう。「半年のうちに世相は変った。……若者達は花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋となる」。栗原が戦争帰りとは書かれていないが、年恰好からして元兵士と当時の読者の誰もが感じたことだろう。
栗原と雪子は会ううちにうちとけ、彼は札束で雪子を買いたいとほのめかしたりする。闇屋の手管かもしれないと思いつつ、雪子も栗原のもとに飛び込んで自分が変わってみたいと願う。「恋だの金はどうでもいゝのだ。ただ、すべてのものを投げだし、出しきつてみたいのだ」。ここまで読んでくると、「残酷な遊戯」の雪子からはずいぶん遠いところまで来てしまったような気がする。このセリフには、「生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまよう」ことを願い、「生きよ堕ちよ」と誘う「堕落論」の一節がこだましていないだろうか。
未完に終わったこの小説は、栗原の本気を試した雪子が栗原の腕を胸に抱きしめ、肩を寄せて歩くところで終わる。「栗原はてれた。白昼がくすぐつたい。然し栗原は雪子の情熱が軽快なので驚いた。大胆で断定的だ。理知とは狂気のことのやうな、気品とは媚態のやうな、風の中に舞ふ羽のやうに軽やかな娼婦の感触にくすぐられた」。いいねえ。
「花妖」がなぜ未完に終わったのか。どうやら安吾本人の事情ではなさそうだ。安吾全集(ちくま文庫版)の解題によると、挿絵を担当した岡本太郎の絵がシュールすぎて新聞小説になじまず、不快を感じた東京新聞の社長が「明日から掲載をやめる」と宣言したせいらしい。これからというところで、安吾はとんだとばっちりを喰ったことになる。
実際、「花妖」は読んでいてぐんぐん惹きこまれる。雪子と栗原はこれからどうなっていくのか。芳枝と修一のもう一組のカップルはどうなるのか。雪子の「復讐」はどんな結末を迎えるのか。ひょっとすると、妹への復讐などどうでもよくなってしまうのではないか。原型の「残酷な遊戯」に比べ、戦争と焼跡の体験を触媒に作品世界がぱちんと弾けて大きく広がり、会話がふえ文体もより口語的になって、いかにも安吾的な登場人物が生き生きとしゃべり、うごめいている。安吾の文学仲間だった評論家の大井広助は、「坂口の最もハリのある作品といえば躊躇なく『花妖』をあげる」と書いている。当初、安吾が「残酷な遊戯」でファルス的な群像劇を目論んだとすれば、それが見事な形で姿を現しつつあったのではないか。最後まで読んでみたかったなあ。なんとも惜しい。(山崎幸雄)
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