書籍名 | センスの哲学 |
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著者名 | 千葉雅也 |
出版社 | 文藝春秋(256p) |
発刊日 | 2024.04.05 |
希望小売価格 | 1,760円 |
書評日 | 2024.06.18 |
著者の略歴を見ると、超越文化科学専攻、表象文化論コース博士課程修了とある。この研究分野の具体的内容が想像すらできない。著者は自らの研究について「哲学が専門で、芸術と文化を結び付けながらの研究。肩書は哲学者・作家」と言っている。また、本書の狙いを「ものを見るときの『ある感覚』を説明したいと思う」としているように、「芸術書」ではあるものの、絵画・音楽といった個別分野に限ることなく、全芸術分野と生活を繋ぐための方法・考え方を説明している。
一般的には「センス」という言葉には、努力ではどうしようもない才能・能力というニュアンスがあるし、「センスが無い」といった否定的な使われ方が多いのだが、著者はこうした決めつけには批判的である。
まず「センス」の定義から始まる。「センス」とは「直感的にものごとを正確に識別し、評価する能力」で「直感」と「思考」を結びつける総合的判断力と言っている。こうした能力・センスのベースは子どもの頃から積み重ねた「文化資本」であるとともに、未知のものへの興味がトリガーとなり、新たなジャンルに繋がっていくといった広がりで「センス」は育成されていくと指摘している。
こうした「センス」に影響を与える要素について解説を進めて行く。まず、行動や芸術活動を「リズム」として捉えることの意味を語っている。音楽で言えば、音が鳴る・止まる、強音と弱音の交代でリズムは生成される。これを、空間物体で考えると机の上の電気スタンドも土台、細い柱、電球の丸い傘といった物体のデコボコの組み合わせを持つことでリズムを生み出していると言っている。また、食べ物も例外でなく、餃子の熱さ、表面のパリパリ感、染み出る肉汁などによって生じるリズムは複雑であると指摘している。こうした「反復と差違」によって多様なリズムが生まれ、そのリズムを意識して楽しむことがセンスと言っている。
そうしたリズムは身体とシンクロして動き出すが、そこからのワクワク感は「1と0」や「有ると無い」という流れがリズムを作り挙げて行く。人間にとって「無い」とは「有ってほしいものが無い」というニュアンスを含んでいるので、幼児と遊ぶ「いないいないばあ」は「無い=不安」から「有る=安心」への転換と言える。これは、子供達が自立していくステップの為の遊びであり、「有る」「無い」という対立にハラハラするというのも、その後の成長していく中で遊びの要素としては残っていく。わざと不安定な状態を作り出して、それを反復して楽しむのは「ごっこ」そのものであり、ある種のサスペンスと言える。
次の観点として「脱意味」について語っている。脱意味というのは、「この芸術作品はなにを言いたいのか」といった答えを求めるのではなく、色、形、音、響きといった作品要素のリズムを楽しむものとしている。西欧の芸術の多くは作品のメッセージや物語を伝えようというものが主流だったが、19世紀以降はその作品自体に面白さのあるものとして変化して行った。特に美術の「脱意味」は比較的判り易いものとして本書でもアメリカの抽象画家のラウシェンバーグの「Summer Rental + 1」を取り上げて、表現(形や色)のリズム等を示しながら楽しみ方を具体的に説明している。また映画を例にとり、映画全体の意図を考えるより、あのシーンの主人公の表情と風景が良かったとか、あのセリフに不思議なユモーアを感じたといった部分共感に楽しさを求める鑑賞姿勢に注目している。
この様に、感動も喜怒哀楽といった大局的な意味や意図への感動とディテールの組み合わせ構造からの感動の二種類あるなかで、著者は大まかな感動を半分に抑えて、部分的な面白さに注目する構造的な感動が出来ることもセンスの重要な要素としている。
著者は映画におけるショットとモンタージュを例に予測誤差の楽しみを語っている。映画のショットは次の画面に切り替わるまでの繋がりのある映像だが、そのショットを複数並べることで物語を形成し「モンタージュ(ストーリー)」が作られる。ショットの並べ方で意外性を持った飛躍によって見る側の予測に対する、誤差を生み、それを「意外な展開」として「サスペンス」と「サプライズ」を楽しんでいる。食べ物でいえば、初めて食べるものにサプライズ感や楽しみを覚える、一方、食べなれていないものは食べたくないという感覚の両面で食を楽しんでいる。
反復の中にある誤差と逸脱に「あれ?」と反応する楽しさを「偶然性」と言っている。「偶然性とどう向き合うかは人によって異なる。だからこそリズムの多様性は生まれ、鑑賞者の個性、固有なセンスとして表現されていく。制作する側から考えた時に、絵で言えば対象とそっくりに描くことが基本的には上手いとされるが、リアルに描けば良い作品と言うわけではない。本物そっくりに描きたいのだが画けないのは「下手」。一方、「ヘタウマ」は再現がメインではなく、「自分自身の線の動きがまず有り、そして描く」。例えば音楽で言えば、優れたピアニストは正確に楽譜通りに弾くことが出来るが、けして機械的に楽譜を再現しているのではなく、ある意味凶暴なエネルギーで楽譜をスケール感や迫力を生み出すことでセンスを発揮している。また、学生たちのバンドもプロになるためにはコピーバンドを超えてゆくオリジナリティが必要であり、「モデルの再現から次のステップに行くことがセンスの目覚めである」としている。極論すれば「全ての芸術はヘタウマ」であると著者は言いきってしまうが、ちょっと言い過ぎとも思える。
以上のような多様な楽しみ方に加えて、著者は「センス」の要素として時間やAIとの関係についても語っている。芸術作品と生成AIが作り上げる表現との識別について「人間には命があって生きるための欲望があるが、コンピューターにはそれがない」という違いで片付けているが、私としては、AIがビッグデータから生成する確率論的なロジックと人間のもつ発想の限界の違いに注目すべきと思うのだが。AIに関する色々な議論は芸術論に限らず掘り下げていく必要があるのだろう。
私の個人的感覚でセンスと言えば、一番身近だったのは服装だったと思う。子供の頃に祖母から「お洒落は不要。身だしなみを大切に」と言われたことを思い出す。祖母に言わせれば、服装は自分勝手なおしゃれ感覚で満足するのではなく、周りの人達が不快感を持たない様な服装にしろという考え方だ。団塊の世代風に言えばTPOを身に付けろということか。祖母は何棹もの箪笥に沢山着物を持っていたので「これはお洒落じゃないの?」と聞くと、血相を変えて「これは身だしなみの為です!」と叫んでいたのが懐かしい。(内池正名)
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