社会を変えるには【小熊英二】

社会を変えるには


書籍名 社会を変えるには
著者名 小熊英二
出版社 講談社現代新書(520p)
発刊日 2012.08.20
希望小売価格 1,365円
書評日 2012.10.03
社会を変えるには

「社会を変えるには」──なんと直接的で、素っ気ないタイトルであることだろう。編集者だったら、「小熊さん、もう少し工夫しませんか」と、注文のひとつもつけたくなるところだ。でもこの言葉の直裁さ、520ページという新書には異例の厚さにこそ、著者の意図が込められている。

これは研究者である小熊がその研究成果をまとめたものでなく、「社会を変える」ための現状分析と、そこから導かれる運動のあり方、さらにその根拠はどこにあるのかをギリシャ哲学まで遡って記した、行動するための思想的テキストブックだ。

小熊英二は3.11の東日本大震災と福島第一原発事故の後、活発に発言し、かつ行動をつづけている。反原発を訴えるデモや集会に参加し、反原発市民団体と野田首相の面会を仲介し、雑誌やシンポジウムで発言し、3.11に関する編著をまとめてもいる(『「辺境」からはじまる』『「東北」再生』はbook-naviで取り上げた)。

小熊は本書の狙いを「社会を変えるというのはどういうことなのか。歴史的、社会構造的、あるいは思想的に」考えてみることだと言っている。研究者であるとともに行動者でもある小熊は、3.11後に生まれた新しい運動に根拠を与えるという自分の役割に自覚的であるように見える。

7章に分かれたこの本で、小熊はまず現在の日本をどのように捉えればいいかを考え(第1章)、社会を変えようとしたかつての社会運動の歴史、特に全共闘運動が残した弊害を述べ(第2~3章)、そもそも古代ギリシャの民主主義とは何であり(第4章)、その展開である近代の代議制民主主義がどんな限界を持つかを考え(第5章)、「合理的」な近代科学を疑い始めた相対性理論や不確定性原理を踏まえて(第6章)、運動のツールとして使える新しい学問や哲学の方法を紹介(第7章)している。

どの章も興味深いけれど、僕には特に第1章の現代日本の現状分析が面白かった。既にいろんな論者がさまざまな角度から述べていることではあるけれど、今の日本の現実を把握しようとしたとき、どこがポイントかを簡潔にまとめている。

小熊は現在のこの国のありかたを「ポスト工業化社会」と捉える。日本は「東京オリンピックからバブル崩壊まで」は「ものづくり」中心の工業化社会だったが、1990年代半ばにさまざまな経済指標がピークに達し、以後はポスト工業化社会に移行していった。欧米は日本に先駆け石油ショックに見舞われた1970年代にポスト工業化社会に移行している。

ポスト工業化社会の特徴として、先進諸国では共通して次のようなことが起こる。

情報技術が進歩してグローバル化が進む。現場の単純業務は短期雇用の非正規労働者に切り替わる。そのため労働組合と労働政党が弱くなる。保守政党も含め既成政党による政治が安定を失って浮動票が増える。会社組織もピラミッド型からネットワーク型に変化する。製造業が減り、情報産業やIT技術を駆使した金融業が盛んになる。長期安定雇用が減るので福祉のための税収や積立金が減少する。低学歴では「マックジョブ(短期雇用)」にしか就けないので大学進学率が上がる。男性の雇用と賃金が不安定化するので専業主婦が少なくなり、女性の労働力率が上がる。とはいえ全体に失業と非正規雇用は増える。不安定な若者の親元同居が長期化し、晩婚化と少子化が進む。結果として、「多数派は周辺労働者になり、格差が増大」する。

その半面、こういう社会は「自由」で「多様」な働き方や生き方が許される。情報技術や宅配業が普及したので多品種少量生産や配送の多様化が進み、いい商品が、安く提供されるようになる。

「消費者でいるぶんには、とてもいい社会ともいえます。しかし生産者、労働者にはつらい社会です。……働かないで消費者でいられる人、高収入を稼げるエリートはいいですが、それ以外の人たちは、安い賃金で働きながら安くていいものを買って、うさを晴らすしかありません」

工業化もポスト工業化も先進国に共通の現象だが、この国に特殊なものとして「日本型工業化社会」が成立していた、というのが著者の見立てだ。石油ショックが先進国を襲った1970年代、欧米がポスト工業化社会に移行したのに対して日本はそれを乗り越え「ジャパン・アズ・ナンバーワン」になった。それは日本が人員やコストの削減を「女性・地方・中小企業といった日本社会の『弱い環』」に押しつけた上で「それに補助や保護を加える」ことによって見えにくくし、男性・中央・大企業中心の社会をつくったからだ。

しかしそのような「日本型工業社会」は1990年代から機能不全を起こしはじめた。政府は経済の低迷に公共事業を増やすことで対応したが、新幹線や大型道路は逆に都市への集中と地方の衰退を進めた。規制緩和と自由化は非正規雇用の増加と地方都市のシャッター街化をもたらすことになった。1992年以降、経済成長率は平均すればほぼゼロに近い。

そんな日本を襲ったのが東日本大震災だった。阪神大震災後の神戸もそうだったが、「産業構造の転換のなかで、震災などの打撃を受けると、在来産業の衰退が一気に加速する」。そのような、限界にきた「日本型工業化社会」の象徴が原子力発電だと小熊は言う。

「大規模投資で作る巨大プラントである原発は、エネルギーを大量に消費する重厚長大の工業化社会の象徴だったといえます」「もはや原発は、経済的にみれば政策と投資の失敗から生じた一種の不良債権です。このままずるずると続けても、将来性のない事業に金をつぎこむ無策にすぎません」

原発に代表される日本型工業社会を変えていかなければならないことは、誰もがうすうす感じている。かつてこの国で反原発の運動は成功しなかったが、今は皆が声を上げることによって動かせる可能性が出てきた。

それは「日本社会が変動期だから」というのが著者の答え。「これまで、日本社会を変えようという動きは、数多く失敗してきました。最大の理由は、不可能なことをやろうとしたからです。例えば日米安保条約をやめることは、冷戦という国際秩序が変わらないかぎり、日本の一国内で運動しても困難なことでした。/しかし社会構造や国際秩序が変わりつつあるとき、すでに古くなって適合しなくなった仕組みを変えることは、それほどむずかしいことではありません」

「原発は、包括性と象徴性のあるテーマでありながら、運動によって変えられる見込みが高いテーマのひとつです。……不当なことがあれば抗議するという体験をして、やってみればおもしろい、それほどむずかしいことではない、という習慣を身につけた人がそれだけ増えれば、社会を変えていきます」

小熊英二は、社会を変えるために新しい「われわれ」という感覚をつくりだすことが大切だと言う。かつて、人びとが家や身分や階級のくっきりした共同体に属していたとき、そこから選ばれた代表は「われわれ」の代表という感覚をもつことができた。でも今、「われわれ」はばらばらになってしまった。

小熊は民主主義の基礎になる「われわれ」の意味をアダム・スミスからルソー、ホッブスに遡って考える。そこで大事なのは「わたし」も「あなた」も最初から実体がある個人でなく、「わたし」も「あなた」も関係のなかで形づくられ、関係のなかで変わりうるという考え方だ。デモや集会は、そのきっかけになりうる。

「盛り上がりがあれば、『自己』を超えた『われわれ』が作れます。それができあがってくる感覚は楽しいものです。……そういう盛り上がりがあると、社会を代表する効果が生まれ、人数の多さとは違う次元の説得力が生まれます。……参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる『まつりごと』が、民主主義の原点です。自分たちが、自分個人を超えたものを『代表』していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします」

代議制民主主義は、国民の意思は均質で数量化できるという前提の上に、多数を得たものが「代表」になるという考えの上に成り立っている。その「代表」が本当の「われわれ」を代表していないと多くの人が感じている現在、代議制民主主義の限界を補完するものとして、デモをはじめとするさまざまな社会運動が有効だし、必要になってくる。

脱原発というテーマに絞って具体的な成果を求めつつ、同時に民主主義の原点である全員参加の「まつりごと」の復権を試みる。著者が言うように、そのような行動のためのテキストとして広く読まれてほしい。高校の倫理社会や大学教養課程の教材としても最適だと思う。(雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索