昭和を語る– 鶴見俊輔座談【鶴見俊輔】

昭和を語る– 鶴見俊輔座談


書籍名 昭和を語る– 鶴見俊輔座談
著者名 鶴見俊輔
出版社 晶文社(302p)
発刊日 2015.06.25
希望小売価格 2,376円
書評日 2015.08.17
昭和を語る– 鶴見俊輔座談

本書(2015年6月30日第一刷)を読み始めて数日経った時に鶴見俊輔の訃報に接した。なにやら運命的である。鶴見と言えば「共同研究 転向」が印象に強く、高校生の時に父の本棚にあったものを読んでいたことを思い出す。本書は1960年代から1990年代に行った対談から集成したもので、語られているテーマは憲法・戦争・敗戦・戦争体験・天皇制というサブタイトルがつけられ、都留重人・羽仁五郎・司馬遼太郎・河合隼雄・吉田満・開高健・粕谷一希といった思想・理念が異なる人達との会話を通して、「上手い聴き手」を演じつつ、相手との違いもけして否定的でない形で表現しているのも鶴見らしい座談になっている。

戦前・戦中・戦後の昭和を語るというタイトル通り、鶴見のホームグラウンドであった「思想の科学」だけでなく、「潮」「諸君!」「ちくま」等、多様なメディアに発表されていたもので、この座談の中で語られる人物たちに対しても表層的な右派、左派の壁を越えて敬意を表していたことが理解出来る。鶴見自身はリベラルとか、市民派と評されていたがそれは彼の行動力・組織力によって担保されていたものであるが、一方で、その発想の間口の広さが時として「迎合」と見えるリスクをはらんでいたとも言えるのだ。

鶴見は、旧制中学までの間に素行不良で何度となく退学を繰り返していたのだが、学者一家という環境に恵まれたこともあり、アメリカに留学しハーバード大に進学している。昭和17年に交換船で日本に帰国した後、徴兵検査では結核のため兵役免除されると考えていた様だが、乙種合格となり、慌てて英語力を生かした軍属に志願して上海の軍機関で働くという選択をした経緯がある。この状況を自ら「戦争中に無気力な状態に落ち込んだという自分の転向」と記している。その後、23歳で終戦を迎えた鶴見は戦前の綺羅星の如くならんでいた進歩的知識人と呼ばれていた人達が戦中に「鬼畜米英」の旗を振ったことや、戦中と戦後で発言や態度を一変させた人間を多く目の当たりにして、そうした人達を嫌悪しつつ、自身の戦中体験も含めて「共同研究 転向」に結実したことになる。

各座談の特徴は世代によって語られる第二次大戦や戦後のありかたに対して明確な違いが出ているのが面白い。例えば、終戦時44歳だった羽仁五郎は戦前の投獄体験だけでなく、戦時が煮詰まる中で昭和20年3月から9月まで特高に拘束されていた経験の持ち主である。

「警視庁の地下二階の牢にいたのだが、8月15日を迎えても誰もその鍵を開けに来てくれなかった。鶴見君、君も来なかったよね」。たじろぐ鶴見は「そこに出なかったので、その後は出ずっぱりに出てますけど」と冗談ぽく答えるものの、羽仁はこう言い放つ「8月15日からあとはまだ歴史ではない。あれまでが歴史だよ」

この対談が1968年になされていることを考えても、戦前の日本の政治・思想の変化に巻き込まれていった羽仁の世代にとっては8月15日こそが日本の変革の時であったにも関わらずそれを逃した責任と無念さを時が経ても自他に迫るのだ。そして、いずれまた来るであろう次の8月15日に「君はなにをするのか」と強く訴えているのが印象的だ。

都留重人はハーバード大で教鞭をとっていたが戦時に日本に戻り、終戦時33歳の気鋭の経済学者であった。経済が判り英語も話せる人間として1947年片山内閣の経済安定本部(次官待遇)に入り、日本国内の政治家、官僚、占領軍と軍政担当者と直接渡り合ってきた人間である。時代が時代だけに、多くの有為な人材の戦死やパージによる既存指導者たちの退陣とともに、核となるスタッフの数や占領軍とインターフェイスが取れる人間も限られているなどの環境もあると思うのだが、現在では考えられないような若手リーダーが国家全域にわたって奔走していた時代を語っている。

現代では組織も複雑、情報も多様、情報の流れの速さは圧倒的に異なっている。そう考えると、都留の世代が戦中・敗戦時の舞台で活躍できたということは戦争の数少ないプラス面として考えられるのだろう。20代30代を国際性豊かな環境の中で体験した都留は、戦後を生き抜く日本人に必要な国際性についての危惧は「言語というのが日本人の場合価値体系の中で低いところにある」と指摘しているのは30年・40年経っても改善されていない状態こそ、世界の中で日本が良い国とは言われても、リーダーとしては評価されない現実である。

こうした二人の戦前派に対して、鶴見とほぼ同世代の吉田満(1923年生・終戦時22歳)と対談している。言わずと知れた、東大法学部を卒業すぐに兵役に付き戦艦大和の電測士官(予備少尉)として沖縄戦に参加して、生還。「戦艦大和ノ最期」を書いた男だ。彼の語る戦争体験の内容は世代間のギャッブを際立たせている。

「戦前の世代は、我々よりもっと自分を確立できる時間的な余裕があったはずだが、その世代が戦争中になにをしたのか。戦後に何をしたのかを考えると、個のアイデンティティーを充実させていたとは思えない。…戦後になってこの世代が、『自分が戦争中こういう考えで行動し、発言した。しかし、この点は間違っていたので、その点を反省し、いまは改めてこういうことを言うのだ』といった発言が無いのは恐ろしいことだ」

吉田の一世代前の人達である吉田茂や石橋湛山といった人達を評価しつつも、この世代の自己反省の無さを吉田は痛烈に批判している。一方鶴見は、戦後日本の戦争責任を自ら考えるチャンスを逃した原因を「戦後、戦争責任について単に左翼・右翼といった区別の問題に変えられてしまったことにある」と指摘しているのだが、同世代の吉田・鶴見に違いがあるとすると、アイデンティティという言葉の使い方である。吉田が国家における個のアイデンティティ(国民)を語る一方、鶴見はコミュニティ(社会より狭い概念の郷土とか村)における個のアイデンティティ(住民・市民)を語っていることだろう。

次に、終戦時22歳だった司馬遼太郎との対談は日本人の敗戦体験から残すべきものはなにかを語り合っている。終戦時、属していた連隊の幹部から下士官の動揺を抑えるために話をしろといわれた司馬の経験を紹介している。

「明治以来お国の為とか、何とかの為とか言われすぎたのではないか。これからは故郷に帰って女房・子どもを大事にするだけの人生を送った方が良い」

こうした発想の根底には、太平洋戦争末期の軍部は日本を支配しているというより占領していたとの思いがあり、戦後は日本軍部の強烈な占領から、かっての敵国による緩やかな占領が始まったことが日本人の中で進駐軍に対する抵抗が少なかった理由の一つとしている。こう語る司馬の戦争体験とは、日本が日露戦争(1905年)に勝ったことにより、明治維新からの30年間の自制心を失って、タガがはずれた状態になり、日本におけるリアリズムの減衰が深まっていった結果の戦争と定義しているのだ。そのリアリズムの欠如は戦後も続き、経済大国と言われているものの、他の国に影響を与えるほどの思想は持っていないし、軍備にしても、たとえ核を持ったとしてもソ連に勝てっこないのだから、軍備はわずかしか持ちませんとはっきり言えばよいというのが司馬の思いが吐露されている。

開高健は終戦時15歳、終戦時の模様を「我々以前の世代は終戦によって何かを失ったと感じて絶望に沈んだ人が多かったが、それ以後の何も知らない世代は、この焼け跡にも喜んでいたという感じもある」。こうした視点から鶴見も「あの焼け跡を肯定的に捉えるかどうかで、左右を超えて戦後の思想の分かれ目になっている」。しかし、敗戦や廃墟からの復興して行くという、その感慨は決して美的なものではあり得ない。だから、川端康成(1899年生)の世代の「美しい日本の私」といった感覚はまったく受け付けないとする開高の一言が印象深い。

「今後わたしはあわれな日本の美しさのことしか書くまいと思った」という世代なのだ。

こうして、本書を読んでいるとテーマも語られる内容も色あせることのない、今日的であることに気付かされるのだが、それは戦後が依然として継続しているということである。そして、残念ながら、国として、社会として必要な転換がなされていないということでもある。世代による戦争体験や戦後体験の意識は異なっている。現代の我々が文字や・映像として理解している昭和の時代について、座談の人々の会話は体験に根ざしての確信に満ち、その密度の濃さに圧倒される。本書に表現されているものは鶴見の仕事の一部分ではあるものの、広い分野の興味と論点を語り、左右の領域を超えて日本の英知達が語り合う姿を実現させる力は今となっては得難い才能の持ち主であったと思うのだ。(内池正名)

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