従軍歌謡慰問団【馬場マコト】

従軍歌謡慰問団


書籍名 従軍歌謡慰問団
著者名 馬場マコト
出版社 白水社(238p)
発刊日 2012.11.07
希望小売価格 2,310円
書評日 2013.02.14
従軍歌謡慰問団

東北新幹線福島駅に降り立つと、古関裕而作曲「栄冠は君に輝く」のメロディーが流れる。駅前広場にはキーボードを弾く古関の彫像がある。生誕100年を記念して作られたものだ。耳慣れた、夏の高校甲子園歌の作曲家として知られている古関ではあるが、戦前・戦中の作曲活動については深く知っていたわけではない。

本書は「従軍歌謡慰問団」とあるとおり、第二次大戦中の中国大陸や・東南アジアの戦地に赴いての慰問活動と軍歌や戦時歌謡にまつわる状況を中心として書かれており、歌手の藤山一郎、東海林太郎、作曲家の古賀政男、古関裕而、作詞家の西條八十などを通して戦前・戦中・戦後の歌謡史を俯瞰していると言ってよい。レコードという新しい娯楽機械の庶民化とラジオ放送の開始によって「音楽」にとっての大変革が起きたのだが、この時期に主人公たちがどの様に登場してきたか、そして、たかだか四半世紀の間ではあるが、技術の進歩、開戦と敗戦、戦後の復興といった時代の流れの激しさに翻弄されつつ生きる人々の姿を本書は活写している。

第二次大戦が中国戦線で拡大する中、朝日新聞社は吉本興業の協力を得て、いわゆる「わらわせ隊」という芸人の慰問団を結成して戦地に派遣した。この企画の成功を基に、1938年から落語・漫才・曲芸・歌謡といった幅広い演芸を対象とした軍事慰問団が展開されていった。1940年に内閣情報局が創設されて、それまで外務省、逓信省、内務省、文部省、陸海軍省に分かれていた「情報・報道」管理機関が統合された。その第五部が文化担当となり、広告・映画・演劇・文学・美術・音楽などを戦時において一元管理する体制が確立する。芸術表現も全て戦争遂行に向けて活用しうる価値があるということである。

例えば、山田耕作を会長とする演奏家協会をはじめとして、全ての音楽関係の団体は情報局管轄下の「日本音楽文化協会」のもとに統合され、山田耕作が副会長に就任している。本書でもその山田が雑誌「音楽の友」に寄稿した「決戦下の楽壇の責任」という文章が紹介されている。まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉を実感出来るとともに、軍が信じた「歌の力」もどう利用するかを問われているということだろう。

日本の歌謡界の歴史ともいうべき主人公達の活動を戦前から戦中そして戦後の継続的活動として本書を読むと、評者としても、幅広い音楽領域に興味を持っていたが、実体験からの主人公達に関する知識や理解はやはり戦後の歌謡界での彼らの活動が主であり、戦後生まれの評者の中で彼らの活動を戦中そして戦前と流れとして歴史的に遡ることはほとんどなかったということだ。

日本のラジオ放送は1925年JOAK東京放送によって始まり、レコード産業は1927年に初の国産レコードレーベルとして日本コロンビアによってスタートが切られた。その後はビクター、ポリドール、そして講談社が雑誌キングの名前をとってキング・レコードを発足させたりした時代である。こうした黎明期の歌謡界はラジオ放送とレコード、そして雑誌メディアなどが「音楽」という領域に新しい姿を持ち込んでいった。しかし、これまでの歌手といえば浪曲師か芸者あがりだったこともあり、この転換期の歌謡界のためには新しいスタイルの歌手が求められた。

「ビクターは当時早稲田大学仏文教授だった西條八十に作詞を依頼した。童謡作家でもあった西條は『東京行進曲』を作詞し、ともに童謡を作ってきた中山晋平が作曲した。・・歌手は悩みに悩んだ揚句、上野の音楽学校の声学科の学生であった佐藤千夜子を選抜した。・・1929年に発売され25万枚という大ヒットとなった。・・・以降レコード企画者にとって乗り越えるべき壁となっていた」

当時の25万枚のヒットというのは脅威的な数字である。個人的な成功と言うだけでなく、音楽業界が興行だけでなくレコード産業が羽ばたいた瞬間である。当時の音楽学校は学生の外部での活動を禁じていたため佐藤千夜子は退学処分を受けることになる。それでも、レコード各社は新人歌手の発掘先として音楽学校の声楽科に求めざるを得なかった。コロンビアは慶応普通部から上野音楽学校声楽科に進学した増永丈夫に白羽の矢を立てた。四年先輩の佐藤が退学処分を受けたこともあり、増永も本名での活動はありえなかった。

「芸名は日本一の富士山をもじって『藤山一郎』となった。・・・1931年に古賀政男作曲の『酒は涙か溜息か』を歌いヒットさせた」

その後、藤山・古賀のコンビは「丘をこえて」をはじめとして、この年だけで35曲の録音をしたと言われているので、今の感覚でいえばとてつもないことである。結局、校則違反が発覚するが、皮肉なことに、すでに録音されていた「影を慕いて」が1932年に発売されるや大ヒットする中、増永丈夫は上野音楽学校声楽科を主席で卒業したという。

東海林太郎のデビュー・エピソードも大変面白く読んだ。 「ポリドールが新人歌手発掘に血眼になっていた時に、三人の歌手のオーディションの最後に来たのが東海林太郎。その経歴は異色であった。・・早稲田大学から南満州鉄道に入社し、調査部にいて著作も多い・・図書館長をやっていた男が30歳でバリトン歌手を目指して満鉄をやめ、5年間の苦労の末、オーディションにやって来た」

そうして見出された東海林太郎は「赤城の子守唄」を吹き込みヒット、「国境の町(橇の鈴さえ寂しく響く・・)」を発売したのは1934年、「麦と兵隊 (徐州徐州と人馬は進む・・」など多くの軍歌や戦時歌謡のヒットを出していく。こうして、藤山と東海林は「歌う早慶戦」と言われながら戦時に組み込まれていく。

古関裕而は苦学してクラシックを勉強しながら、1931年に早稲田大学応援歌である「紺碧の空」を作曲してデビュー後、1936年には阪神タイガース応援歌「六甲おろし」を作曲し、軍歌でも数多くの作品を残している。1937年「露営の歌(勝ってくるぞと勇ましく・・)」、1943年「若鷲の歌( 若い血潮の予科練の・・ )」など。

こうした歌手・作曲家などは放送局、新聞、レコード会社などの単位で戦地慰問活動を続けたという。1938年から1941年の三年間で中国大陸には122団体、1108人の慰問団が派遣され、中でも東海林太郎は回数・期間ともに一番大きな貢献をしたと言われている。満鉄出身という経歴や持ち歌にあったのかもしれない。

しかし、終戦とともに彼らの生き様はまちまちとなる。藤山は戦後インドネシアで抑留され帰国は戦後一年後となり、東海林は戦後も燕尾服・直立不動の歌い方で「赤木の子守唄」に代表される「戦前」を歌い続け、古関は「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」「君の名は」「高原列車はいく」などの名楽曲を残した。

古関の死後、政府が国民栄誉賞の授与を申し出たが、遺族は授与を固辞したというエピソートが紹介されている。国から評価されることへの抵抗感は拭え切れなかったのかもしれない。戦時の貢献を自分の心にどう落とし込んでいくのかはこの世代の人たちの苦しんだところであろう。

「ヒットという宿命の課題をもたされた音楽界は、時代の変化を嗅覚的に嗅ぎとり、新たな時代の言葉と音を創出できる者たちだけが生き残る世界だ。・・・この本のおもな主人公が、戦時中に数多くの軍歌・戦時歌謡をつくり歌いながらも、戦後さらりと平和賛歌を創出することに、違和感をもって、お前たちには思想がないのかと迫る人々に、彼らは言うだろう。『右も左もない、自分は時代の子だ』と」

しかし、古関は「時代の子」として割り切りが出来なかったということか。ヒットを生み出すという産業としての名声、戦地の軍人達が涙を浮かべて合唱してくれるという国策への貢献、しかし、それらは人々に共感を持ってもらえたという創造者としての満足感には勝てないということだろう。歌謡通史として興味深く読み終えた。(正)

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