戦争が遺したもの【鶴見俊輔 上野千鶴子 小熊英二】

戦争が遺したもの


書籍名 戦争が遺したもの
著者名 鶴見俊輔 上野千鶴子 小熊英二
出版社 新曜社(406p)
発刊日 2004.3.10
希望小売価格 2800円
書評日等 -
戦争が遺したもの

団塊の世代に属し、尖鋭なフェミニズム批評で知られる上野千鶴子。戦後思想を俯瞰した「<民主>と<愛国>」で、その団塊の世代はじめ年上のインテリたちを震いあがらせた、40代になったばかりの小熊英二。いま、論争をやらせればいちばん手強そうな二人の戦後世代が、82歳になった哲学者、鶴見俊輔に戦争と戦後の体験を聞く鼎談である。

三人が互いに相手を信頼し、尊敬しながらも、なあなあにならず、そこまで聞くか?そこまで追い込むか?と、はらはらするほどに二人は鋭く鶴見に迫り、鶴見は鶴見で、「もう今日は、なんでも答えます」と、自分の恥となるようなことや、これまで明かしたことのない戦後史のエピソードを語る。近ごろ、こんなにスリリングで深く、しかも面白い座談を読んだことはない。

たとえば、鶴見が母親との葛藤で5回も自殺未遂したことや、小学生の頃から女性関係を持っていたこと、戦争中に軍属として将校に従軍慰安婦を世話する仕事をやらされたこと、戦後の鬱病体験、丸山真男や竹内好との交流や、1960年6月15日、国会前で「あの戦争で死ななかったんだから、ここで殺されても結構だ」と思った体験などなど、彼の愛読者でも知らない話が次々に語られる。

従軍慰安婦については、主に上野千鶴子が聞き手を務めている。上野は鶴見に対して、「鶴見さんがそういう女性に向ける視線が冷たいなと感じました」「彼女たちは一方では支配やレイシズムの犠牲者であるけれども、同時に(当時の鶴見のような)より下位の男たちには、傲慢さを示す存在でもある。そういう女性に対する反感が、女性の描き方の冷たさに反映しているとは言えませんか」と、畳みかけるように鶴見の従軍慰安婦に対する姿勢を追及してゆく。

そんな厳しいやりとりが延々と続いた果てに、政府のバックアップでつくられた従軍慰安婦への国民基金に鶴見がコミットした問題に関して、上野はダメ押しのような批判の言葉を紡ぐ。

「上野鶴見さんは、「自分は叩かれつづけるサンドバッグになる」という覚悟を述べておられます。それは鶴見さんの心情倫理としてはよいとしても、そのサンドバッグを叩きつづけなければならない立場に立たされる方(注・基金を拒否した高齢の元慰安婦たち)にとってはどうでしょうか。そういう方々にしてみれば、鶴見さんに「私はサンドバッグになります」と言われても……。
鶴見いや、それはそうです。
小熊上野さん、まあそのあたりでちょっと……」

それまで、このテーマでは補助的なインタビュアーとしてふるまっていた小熊が、たまりかねたように口をはさむ。戦後知識人の欺瞞に対して容赦ない論理を展開する小熊が、「まあ、ちょっと」などという言葉で二人のあいだに割って入る光景は想像もつかない。

それとは逆に、冷静に、しかし執拗に言葉の裏側にひそむものを暴いてゆく小熊の追及に、上野が割って入る、こんな情景もある。

鶴見が60年安保の全学連(ブント)の青年や吉本隆明の、遡って戦争時の少年兵の「純粋さ」や「一刻さ」を評価することについて、小熊は、それは鶴見の「後ろめたさ」の感情から出ているのではないかと指摘する。

小熊が、「そこは鶴見さんの最大の矛盾ですね。昨日の話に出た、戦争に純真に献身している少年兵と、適当にごまかしている老兵とでは、どちらがお好きですかという問題と重なります。そもそも鶴見さんは純真な人がお好きだけれど、じつはお父さん譲りの政治的センスもあって、軽率には走らないでしょう」と迫り、鶴見が、「だから、私は悪人なんだよ(笑)。そこが矛盾しているといえばそうなんだけど……」と言い淀む。そこに上野が入ってくる。

「上野小熊さんは解釈を急いでおられますね。昔の私を見るようだ(笑)。
小熊ごめんなさいね。まだ若いんでしょう。
上野いまのやりとり、面白かったでしょ(笑)。
鶴見ははは(笑)。
小熊上野さんは、そういうことを自分が言わねばならない立場になったことについて、どう思ってらっしゃるんですか。
上野ああ、歳をとったなあ、と(笑)。ポジティヴな意味ですよ。
小熊そうですね。歳はとりたいものですね。
上野ええ。若い頃は恥ずかしいことをしてきたなあと……。ちょっと休憩しましょうか。和菓子を買ってきたんですけど、いかが?」

この人のところへケンカの仕方を習いにいく人もいるという上野千鶴子が、こんなふうに場をなごやかにする情景も、先ほどの小熊のとりなし以上に想像できない。一人が鋭く刃を突きつけ、鶴見が誠実に答え、その場の議論が底に届いたなと感じたら、もう一人が席の雰囲気を収める。芸の力ともいえるけれど、それより3人の信頼関係がうかがわれる、いいシーンだ。

ここで鶴見が戦争体験から得たものとして繰り返し強調していることが、いくつかある。ひとつは、「日本を動かしてきた一番病の知識人が、どんなに下らないか」ということだ。

東京帝大を一番で卒業した鶴見の父、政治家の鶴見佑輔も、彼に言わせれば「総理大臣になりたかっただけの人」だが、「一番病」の典型は戦前の国家指導者を輩出した東大新人会だった。彼らは大正デモクラシーの時代には民本主義を唱え、その後、マルクス主義に乗り換え、戦争が始まると揃って転向して戦争に協力した。そして戦後も「東大、文部省、天皇という明治国家の三つの根本」はそのまま残っている、と鶴見は言う。

もうひとつ、戦争体験と、さらに遡って、名門の出で息子の鶴見を厳しくしつけた母親との葛藤から彼が学んだのは、「正義というのは迷惑だ」ということだ。「全身全霊正義の人がいたら、はた迷惑だってことだよ。私が戦後に共産党に入らなかったのも、一つはそれなんだよ。私は悪人なんだから、正義の側になんかいたくないんだ。スターリンなんていうのは、権力と正義を二つながら手に持つという状態だからね」。

そうした体験から得た鶴見の生に対する基本的な構えを、彼は「大切なものは明確な教義にあるんじゃない。大切なものは、あいまいな、ぼんやりしたものだ。これは私にとって、方法以前の方法なんです」と表現している。

それは、アメリカに留学していた鶴見が、日米開戦が迫って最後の交換船に乗って帰国したときの決断とも関係しているかもしれない。

「日本はもう、すぐにも負けると思った。そして負けるときに、負ける側にいたいっていう、何かぼんやりした考えですね。というか、勝つ側にいたくないと思ったんだ。この戦争については、アメリカのほうがいくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられないと思ったんだ」

それは鶴見も言っているように、「論理的な判断じゃない」。かといって、倫理的判断と言ってしまっては、あまりに整然としすぎる。生に対する、言葉にしにくい「ある傾き」とでも言おうか。ともかく、そのように決断した鶴見は、帰国した後も「とにかく人を殺したくない」一心で戦争をやりすごす。

戦後になって、60年の反安保闘争に関わったり、ベ平連を組織して脱走米兵を援助したことなども、市民主義といった明快な主張というより、「あいまいなものを大切にする」姿勢、具体的にいえば信頼する友人を裏切らないという態度から来たものであるように思える。その渦のなかで出会った何人かの人々とは、とことんつきあう。それを鶴見は「ヤクザの仁義」と呼んでいる。

彼が「仁義」を感ずるのは、その人の主義主張というより、そのもうひとつ奥にあるものに対してだ。だから、その人たちの思想的立場はさまざまで、時には、鋭く対立している場合もある。

鶴見がそのような「仁義」を感ずる、戦後思想の対極にある二人――「内側に狂気を抱えこんだ」丸山真男と、「丸山さんが九点とって吉本が一点だとしても、私は吉本の一点に対して支持する」吉本隆明の肖像は、この人でなければ語れない内側からの光が当てられていて圧巻だ。(雄)

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