社会の抜け道【古市憲寿 X 國分功一郎】

社会の抜け道


書籍名 社会の抜け道
著者名 古市憲寿 X 國分功一郎
出版社 小学館(254p)
発刊日 2003.10.01
希望小売価格 1,785円
書評日 2003.11.10
社会の抜け道

本書は古市憲寿と國分功一郎という若手論客が2012年春から2013年の夏にかけて行った対談をまとめたもの。「世界規模の何か」について語るというテーマを大上段に構えて、消費社会の変容、民主主義のありかた、食料問題、女性の就業、インターネット等について具体的な体験や、観察を基にして二人は議論を進めている。この対談を國分はあえてカジュアルな議論と言っているように、肩肘張ったものではなくどの部分からも読んでいける形になっている。古市は1985年、國分は1974年生まれと、評者から見ると子どもより若い世代の人たちである。従って、議論の中には時代感覚の違いも所々に見えてくるのだが、それも理屈の問題ではなく、自分が持っていない視点として受け入れて読んでいけるのも、カジュアルな議論の良さなのだろう。

國分は古市を評して、「社会の水漏れ」に注目してきた社会学者と言っている。評者を含めた団塊の世代が若者たちの不甲斐なさや、不運を嘆いているとき、「いまの若者たちは現状に幸せを感じている」という統計を明らかにした男だ。若者の生の声を集め、その生き方を描いて見せた結果、彼らがけして現状を肯定しているのではなく、この社会を良くしようとしていることを示すとともに、「なんだかんだで、資本主義に好意的でデモとかを冷ややかに眺めてしまう」という古市の自己評価も念頭に置いて本書を読んでいくと彼の発言主旨を理解し易い。

一方、古市から見た國分は、民主主義の可能性を信じ、消費社会に否定的な哲学者ということのようだ。國分はこの社会をいかに変えていくかということに関心があるものの、「世界規模の何か」を手放しで賞賛したりはしない。だからと言って革命などによって社会を何もかも変えようとしているわけでもない。むしろ、毎日の生活の中で、いかにそれをより良いものにつくり変えて行けるかに興味がある人ということだ。

二人の議論のとっかかりは、新三郷の巨大ショッピング・パーク、いろいろな世代の方々が運営する「暮らしの実験室」という有機農場、原発反対デモや新大久保での人種差別的デモ、國分の子どもが通っていた保育園等、極めて日常的な場所を訪問したり、話題を取り上げている。こうした、現場から真の問題を探り、気づきを得たりして、本書のタイトルである「社会の抜け道」を見つけるヒントをふんだんに提供している。「抜け道」という言い方だけではなく、「オルタナティブ(代替策)」を探すというポジティブな言い方もしているのはなかなか巧みな表現だ。

二人の論点はどんどん膨らんでいき、変化もしていく。良い意味での選択肢の広がりを読者に提示していることが面白い。二人の年齢差(そうは言っても10年ほどの違いなのだが・・・)が垣間見えるところがあるし、感覚や見解の差もあるのだが、その間でも古市の礼儀正しさと、國分の素直さ、二人の経験の多様さが上手くかみ合った対談になっているのは年齢以上に二人の精神成熟度の高さを示している。

「IKEAとコストコに行ってみた」と題して、「消費」と「機能空間」に焦点をあてて話し合っているのだが、國分は、IKEAは「消費者の能力が試される仕組み」だと看破する。購買意欲を掻き立てるように家具が上手く展示されており消費者はリテラシーが高くないと不要なものや変なものを買わされてしまう可能性があるということだ。デパートやショッピング・センターという展示型の販売形態が開始される以前の小売店では、売り手はプロのコンシェルジュとして存在していた。例えば、日本の呉服屋は客の好みなどを聞き、今までの顧客の購買履歴なども加味して、店子番頭が店の奥からお勧めの商品を持ってくる形態だ。こうした形は経済発展と効率化の中で衰退していったのだが、ネット社会の新しいマーケティング形態の進化の結果として、アマゾンのリコメンデーションがまさにビッグデータを駆使したコンシェルジュ的サービスとして回帰してきたとの指摘は面白い。

また、鹿児島の「A-Z」という地場のスーパーマーケットを紹介しているところでは、その名の通り、店では生鮮食料品から喪服、自動車まで販売している。売り場はワンフロァーのバリアリー、配送の無料サービス、60歳以上からは消費税分のキャシュバック、地元高齢者の雇用、24時間営業で早朝は高齢者の社交場と化しているとのこと。

このように、消費の場はあきらかに変化している。「A-Z」に限らず、三郷のショッピング・パークでも、消費するだけではない公共空間というか一種のテーマパークとして住民に受け入れられているという現実を示している。

國分は「生きる」より「暮らす」という目線を重要視しているのだが、企業社会や消費社会から距離をとって生きる人たちを示す「ダウンシフター( Down Shifter)」という言葉を紹介している。団塊の世代の定年とともに、ギアをシフトダウンさせる生き方という意味だが、そこから始まる、自分探しの活動について辛口で論じている。そこから、日本における反近代主義の大きなうねりがリーマン・ショックや原発事故以降に盛り上がっているという認識のもと、古市が言う「原発デモはかっての学生運動の時代と違って闘争性が感じられない」との指摘を受けて、國分は社会運動における「目的」と「手段」について象徴的に語っている。

「続けることに意義があるといった、目的のうやむやさが生まれると最悪だ。・・問題の解決が避けられるようになってしまう。問題が解決すると運動が終わってしまうからだ。・・一方、目的を絶対化すると、目的達成のために『いま』を犠牲にして身を捧げるという面がどうしても出てきてしまう。そうしたギリギリのコミットメントを肯定することは出来ないし、ましてや他人に強いることは出来ない・・・どちらにしても深刻な顔をすることが重視されて、運動を楽しむことが忘れられているのではないか」

まるで、団塊の世代が通過してきた学生運動を対極として、「ダウン・シフター」としての暮らしを提言している。

「人類史的重要プロジェクト・保育園の話」は日本の幼保一元化の議論に始まり、ノルウェーの育児制度を紹介している。それは、基本的に働く母親を支援するためではなく、むしろ子ども達を早期から集団生活に馴染ませ社会の一員とさせていくのが目的であり、「ケア」より「育成」の観点で運営されているとのこと。この指摘は新鮮な視点として考える必要がありそうだと思った。日本ではゼロ歳児からの保育を担う施設の数の不備や、幼稚園の運用前提が専業主婦家族モデルのままであったりしている状況が女性就業の足かせになっているとの認識で「幼保一元化」が語られているのとは一線を画すものである。こうした家族モデルの変化の展開として、雑誌の「オレンジページ」が俎上に乗っているのも面白い。古市いわく、「オレンジページ」は基本的には料理レシピ雑誌であるが、主婦向けの節約術が充実していると言うと、國分はこう言い放つ、
「食費を月一万三千円で抑えるテクニックみたいなものの紹介に違和感を持った。・・・まるで『節約という行為を消費している』ようだ。だいたい他で無駄遣いをしてないのかな。携帯で月に一万五千円つかっているとか」

本書を読み終えて、「日本において五年前の体験の正当性は保証されないと思う。何やら我々日本人は忙しく変化している社会に身を置いて疲れている国民の様に見える」という指摘は説得力がある。しかし、世代的には、この社会を設計し、活動してきた責任も感じるのだ。解くべき課題は多様・多彩であり手品のような解決策は存在しないのも事実。団塊の世代の評者としては、社会構造の変化の速さと、自ら体感していることの範囲の限界を認識させられている日々なのだが、とはいっても「代替策を考え」「どう暮らしを楽しむか」という視点から、さて何か行動してみようという気にさせてくれる本である。ただ、「いまの社会の全体像を映し出しているとも思わないでほしい」というクギをさすことを忘れていない。これを國分と古市のしたたかさと見るべきか。(正)

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