セカンドハンドの時代【スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ】

セカンドハンドの時代


書籍名 セカンドハンドの時代
著者名 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
出版社 岩波書店(630p)
発刊日 2016.09.29
希望小売価格 2,916円
書評日 2017.03.18
セカンドハンドの時代

1991年12月、ソビエト連邦が消滅した。その1年半前、わずか10日間だがモスクワとサンクト・ペテルブルクを一人で旅したことがある。すでにベルリンの壁は崩壊し、東欧の共産主義国家が次々に倒れていた。ゴルバチョフのもとでペレストロイカとグラスノスチが進行していたがモノ不足からインフレが進行し、経済の混乱は目を覆うばかりだった。日々そんな報道に接して、国が壊れるというのはどういうことかと、野次馬的な興味から「物見遊山」の旅だった。

夜遅くモスクワの空港に着いて、市内のホテルにチェックインした。空腹だったのでホテルのレストランに行くと、サラダしかできないという。仕方なくパンとサラダを頼むと、固いパンにぶつぎりのキュウリとキャベツが出てきて、ドレッシングもかかっていなかった。市内のレストランに入ると、メニューは国民向けにルーブル、外国人にはドル建てと二重の価格が書かれていた。ルーブルより1ドル札が通貨として通用していた。アメリカたばこが通貨代わりに喜ばれると聞いて持っていったが事態の変化は早く、もう誰も喜んではくれなかった。

繁華街のアルバート通りには露店がびっしり並び、日用雑貨から偽物のイコン、土産ものまで、あらゆるものが中古新品とりまぜて売られていた。地下鉄の入口には、年金生活者だろうか70代くらいの老人が立ちつくし、使い古した靴を両手に持って売っていた(2時間後に戻ったら、老人はまだ立っていた)。サンクト・ペテルブルクの地下鉄では、それ以前にも以後も見たことがないような絶望的な眼つきをした老夫婦が座席に座っていた。

やはりサンクト・ペテルブルクのホテルでは、内戦のボスニア・ヘルツェゴビナから来たジャーナリストと称する女に騙されて、3000円ほどの買物の代金を払わされた。銀行では、再両替に差しだした高額のルーブル紙幣を窓口の中年女性が「受け取ってない」と言い張り、激しく抗議しても誰も見向きもしてくれなかった。一方、エルミタージュ美術館近くで足を挫き、病院に行ったらレントゲンを撮って足を石膏で固められ、治療費を払おうとしたらソルジェニツィンみたいな風貌の医師はお金を受け取ろうとしなかった。

『セカンドハンドの時代』を読みながら、ソ連という国を一瞬通りすぎただけだったが、そのときの旅を思い出していた。本書はその翌年、ソ連が崩壊しエリツィン政権下のロシアで急激な市場経済化が進んでいた時期に、旧ソ連圏の人々にソ連時代の話を聞いたインタビュー集。そこで展開される人々のすさまじい体験の数々は、僕のささやかな旅など比べものにならない質と量の厚みをもっていて、ひたすら圧倒される。この本を含めた5冊のインタビュー集で、著者は2015年のノーベル文学賞を受けた(「セカンドハンド(使い古し)の時代」とは、今日あるすべてが「昨日のもの、誰かのお古のよう」との意)。

ここでは主に20人の人々(女性が多い)がソ連時代の体験を語り、さらに著者が街頭で集めた人々の言葉が散りばめられている。戦争、収容所、民族浄化、密告、拷問、家庭崩壊、アル中……と言葉で言ってしまえば簡単だが、そうした事態が国民的体験として広く共有されているのを目にして言葉を失う。

もっとも、そう言ってみても本書を紹介したことにはならない。著者は、「戦争」や「収容所」といった概念的な言葉に人々の体験や記憶が回収されるのを拒むためにこそ、ひとりひとりの語りに耳を傾け、そのディテールを再現している。だから著者は人々の言葉をひとつの物語、ひとつのテーマに収斂させない。人々の語りは、それぞれの思いが行きつく先も違い、互いに矛盾し、ときに対立することもある。でも、そんなふうに言葉が生まれ、「ただの日常生活が文学に移行する瞬間」に著者は耳をすましている。

それがどんなものか。長くなるけど引用してみる。こんなふうに断片をいくつか並べるのが、本書がなんなのかをいちばん良く伝えるやり方に思えるから。

「私の世代は、収容所帰りの父親か、戦争帰りの父親か、どっちかの父親といっしょに大きくなった」
「あなたはおくさんを密告しなかったでしょ。それがすでに罪なんですよ」
「出稼ぎや副業がはじまった。お金は自由の同義語になったのです」
「最初に崩壊したのはわたしたちの友情……」
「わたしは長いあいだスターリン少女でした。……だから、あの人生をうばわれたら……なにも残らない」
「ぼくを拷問するとき、彼女はうつくしくなるんだ。いいかい、あのときの彼女はうつくしいんだよ」
「銃殺班……ひざまずかせて、ナガン式連発ピストルの銃口を左後頭部につきつけて撃つ……勤務時間が終るころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた……ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった」
「わたしたちがものすごくしあわせだったこと。……わたしたちは赤貧のなかで子どもっぽく育っていて、でも、そうとは気づいていなかったし、人をねたむことはなかった」
「夜中になぐって、朝になるとひざまずいて、悪かった、許してくれという。あいつは、なにか激情に苦しめられていた」
「若者も年寄りも、二、三○人ずつになってアルメニア人の家族が住んでいる家に押し入る。殺したり、レイプしたり。父の前で娘を、夫の前で妻を……でも彼女は泣かなかった……それほど彼女は恐ろしかったのです」
「メチルアルコール、ブレーキオイルを飲んでいた……。馬鹿なことをしたり酔っぱらっては地雷で爆死」
「殺す、飲んだくれる、セックス、これは戦地の三大お楽しみ」
「私たちの全財産、それはわたしたちの苦悩、わたしたちが体験してきたことです」
「女友だちに赤ちゃんが生まれた、冷蔵庫がなかった。レーナは自分のをやってしまった。人は……かくも多くのものを与えることができる。これは、……ドストエフスキーが『ロシア人は、ロシアの大地のように広大だ』と書いた、あのロシア人です」

600ページ余を読み終えて感じたのは、20世紀後半にソビエト連邦という国に生きた人々の、とてつもなく酷い国民的体験がつまった大きな多面体を手渡された感覚だった。戦争、スターリン時代、冷戦、ペレストロイカ、国家崩壊、市場経済化。どの断面を切っても、いろんな角度の切り口からいろんな血と涙と苦悩が流れでてくる。かつてこの多面体からソルジェニツィンが生まれたように、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチもここから生まれるべくして生まれたように思える。

同じ地球上で同じ時代を生きながら、たとえば僕たちが体験した戦後の日本社会とはあまりにも違う。これを読みながら、同世代の村上春樹が自分が育った時代について語っていたのを思い出した。彼はこう書いている。自分は年上の世代のようには戦争も飢えも体験していない。激しい虐待や差別にあったこともない。穏やかな郊外住宅地に育ち、とくに幸福でも不幸でもなく(「ということは相対的に幸福であったのでしょう」と村上は書いているが)、学校の成績もとりたてて悪くもなく、これといって特徴のない平凡な少年時代を送った、と(『職業としての小説家』)。

むろんこれは村上個人の体験や感じ方で、そうではないという人もたくさんいる。戦後の貧しい時代に食うや食わずの人はいたし、21世紀に入ってからの貧困の拡大や社会の息苦しさは半端じゃない。でも四捨五入していえば、村上春樹の小説が多くの人に受け入れられたように、村上の述懐に、うん、自分も似たようなもんだったな、と頷く人が多いんじゃないだろうか。日本の戦後社会が持った国民的な共通体験は、豊かさの裏にいろんな問題はあるにせよ、大雑把にいえば村上が言うところに近かったような気がする。

これは、どちらが良くてどちらが悪いという問題ではない。村上は、そんな「書くべきマテリアルがない」場所から自分の無意識を深く掘ることによって文学の鉱脈を見つけていった。アレクシエーヴィチのこの本は、豊かさと民主主義(どちらもカッコつきではあれ)を実現した社会に育った僕たちに手渡された異質で、異様な、不整形の塊だ。この塊を受け取った僕たちにできることは、自分が生きた戦後社会を相対化して20世紀の歴史の中にその構造を位置づけること。そしてこれがいちばん大切だと思うけど、同時代に別の場所で他者が経験していた痛みに敏感になる想像力を鍛えることだろう。これは消滅した国家の話ではなく、今も世界のどこかで起こっていることであり、未来のこの国に起こらないとは誰も断言できないのだから。(山崎幸雄)

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