属国民主主義論【内田 樹・白井 聡】

属国民主主義論


書籍名 属国民主主義論
著者名 内田 樹・白井 聡
出版社 東洋経済新報社(360p)
発刊日 2016.07.21
希望小売価格 1,728円
書評日 2016.08.22
属国民主主義論

この対談集のタイトルになっている「属国」とは、「日本はアメリカの属国であり、主権国家ではない」ことを指す。「属国民主主義」とは、「どれほど民主主義的に理想的なプロセスを経て物事を決めることができるとしても、決定の効力を及ぼすことのできる領域がどこにもないのならば、決定自体に何の意味もない」、そんな民主主義を指す。

最大の問題は、と白井聡が言う。「日本がアメリカの属国であるという現状を肯定しながらも、その原因となった敗戦という事実を、意識の中でちゃんと認めてないということですね。……『敗戦の否認』がもたらす大きな問題は、それによって日本人が、自らが置かれた状況を正しく認識できなくなってしまったということです。……本当は、主権がないのであれば、あるべき主権を確立しようとするのが、本来の意味でのナショナリズムであり、民主主義の帰結するところでしょう」

敗戦後、米国の占領下におかれた日本が独立を果たしたのは1952年、サンフランシスコ講和条約発効によってだとされる。同時に調印された日米安保条約によって、引き続き米軍がこの国に駐留することになった。というのが学校で教えられた教科書的な理解だが、日本は「独立」後も米国の属国でありつづけているというのが2人に共通した考え。ことあるごとに、「日本は米国に逆らえない」と多くの日本人が心の底で感じていることを、あからさまに言葉にし、敗戦を否認する心性を挑発してみせるのが本書の意図するところだろう。

2人の言うことにほぼ共感する小生にしても、「日本は建前は独立国だが、実質は属国である」とこの言葉を書きつけるのにいささか心理的抵抗がある。高度成長を果たし、GNP世界2位にまでなった国が、いまだにどこかの属国だなんて……。と思うこと自体が、「従属の自覚が失われている」(白井)意識がいかに私たちの心に深く浸透しているかの証左かもしれない。

属国であることのいちばん分かりやすい事実は、米国の軍事基地が敗戦後70年たっても存在すること、また米軍が事故を起こしたり米国軍人が日本人に危害を加えても日本の法で裁けないことに端的に表れている。米軍基地の75パーセントが沖縄にあることで、属国であることの矛盾が沖縄に集中する一方、基地の存在を日常的に目にすることのない多くの日本人がこの事実を忘れる理由にもなっている。でも沖縄のさまざまな問題だけでなく、過去の田中角栄の失権から自衛隊のイラク派遣、最近では慰安婦問題をめぐる突然の日韓合意まで、こうした出来事はその背後に米国の存在を抜きには考えられない。

数年前、白井聡は話題になった『永続敗戦論』のなかでこう書いていた。

「問題の本質は突き詰めれば常に、『対米従属』という構造に行き着く。アジア諸国(ロシアを含む)に対する排外的ナショナリズムの主張は、意識的にせよそうでないにせよ、日本に駐留する米国の軍事力の圧倒的なプレゼンスのもとで可能になっている。日本が『東洋の孤児』であり続けても一向にかまわないという甘えきった意識が深ければ深いほど、それだけ庇護者としての米国との関係は密接でなければならず、そのために果てはどのような不条理な要求であっても米国の言い分とあれば呑まなければならない、という結論が論理必然的に出てくる。かくして、対米従属がアジアでの孤立を昂進させ、アジアでの孤立が対米従属を強化するという循環がここに現れる」

米国に従属(依存)することと、中国や韓国に対するナショナリズムの言説が裏腹の関係にある構造を鮮やかに指摘してみせた一節だった。それは最近の動きを見ても頷ける。100年単位で帝国の復興を目論む中国が、南沙諸島の問題にからんで尖閣諸島周辺での動きを活発化させたのに対し、日本は政府もマスコミも、尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲内であることを米国政府が二度、三度と確認したことを喜んで(安心して)いる。

もっとも本書は、こうした現実に対抗するためにどんな政治姿勢を取るべきかを話し合っているわけではない。もっと長い目で見た、精神風景とでもいうべきものに及んでいる。例えば安倍晋三首相が唱える「美しい国」とか「伝統的な家族」といった言葉の実質はなんなのか。

「安倍政治には……自分が生まれ育った街や、風土や伝統文化に対する敬意や愛情が全然感じられない。徹底的に都会的な、シティボーイのファシズムですね」「できあいの右翼的言説を借りてきたもので、彼らの生活実感にも身体実感にも根ざしていない。ただのフェイクなんです」(内田)

この本を読んでいるとき、相模原の障害者施設が襲われ障害者19人が殺され26人が重軽傷を負う事件が起こった。この施設で働いていたことのある容疑者の男は、犯行後、ツイッターにこんなメッセージを残していた。「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!」。「平和」とか「beautiful Japan」という言葉が、「障害者なんかいなくなればいい」とうそぶいて障害者を殺した後の世界、自分にとって異物と感じられるものを排除したフラットな世界をイメージして使われていることに驚く。

ウェブの情報サイト「リテラ」によると、容疑者がツイッターでフォローしていた有名人には安倍晋三、百田尚樹、橋下徹、ケント・ギルバートらがいるという。「美しい国」も「伝統的な家族」も「世界が平和に」も「beautiful Japan」も同じような劣化した精神風景、「ただのフェイク」に見えてこないだろうか。もちろんそうした風景が、戦後政治が米国に従属した結果、リアルな現実認識を失ったことによってもたらされたと単純化はできない。明治以来の資本主義化、戦争、高度成長とその失墜、グローバル経済への組み込みといった時代の大きな流れのなかで考えなければいけない問題だろう。ただ、そんな流れの果ての現在にこんな劣化した言葉が浮遊していることだけは確かだ。
 
この本の最後で、2人はもう一度、生身の身体に立ち戻ることを語っている。

「世界中で政治的幻想・経済的幻想と生身の身体が共生不能に陥って、軋みを起こしている。身体が『もう戦争は止めてくれ、もう経済のために人間の環境を破壊するのは止めてくれ』と言い出している」「何につけ『利便性』を追求する動きに対して、『身体性』というリミッターをかけるのは大事なことだと思うんです」(内田)

政治やグローバル経済が、いろいろなものを「改革」「緩和」「改正」し壊していこうという時代に、内田樹、白井聡という少数派の過激な論者が「身体性」というもっとも保守的なものに拠りどころを求めざるをえないところに、この現在が抱える病根の深さが見えてくる。(山崎幸雄)

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