書籍名 | ちあきなおみ 喝采蘇る |
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著者名 | 石井伸也 |
出版社 | 徳間書店(206p) |
発刊日 | 2008.3.19 |
希望小売価格 | 1575円(税込み) |
書評日等 | - |
ちあきなおみのCD「Virtual Concert」が発売されたのが2003年。新たに発掘された音源も数曲収録されていた。このように彼女が活動を停止してから10年ぐらい経った頃からだろうか、TVをはじめ各種メディアは彼女を数多くとり上げ、楽曲も再販売されてきた。
集大成のように、本書は2007年10月から12月にかけて「週刊アサヒ芸能」に連載された記事に加筆出版したもので、ちあきなおみの歌手としてスタートした5才から、その活動を封印した1992年9月11日までを描いている。
年譜とDiscographyを見て、ちあきなおみは1947年の生まれで書評子と同年であったことを知った。彼女のほうが2-3歳は若いのではないかと思っていたのだが、まさに同時代を生きてきたのかと格別な思いを抱いたりもした。「ファン」というほどではなかったが、デビュー以来、気になる歌手であったのは事実だ。
一方、著者の石井は1961年生まれとのことで、ちあきとは時代を異にした世代だが、作詞家・作曲家・歌手・レコード会社の関係者などへの取材を行い、丁寧に組み立てることによってしっかりとした構成の本を作り上げた。過去から、断片的にエピソードは語られていたが、人間「ちあきなおみ」を知るためには好書であろう。本書の狙いを石井は次のよう語っている。
「ちあきなおみはなぜ歌わないのだろうか。最愛という紋切り型の言葉では片付けられない関係にあった夫を亡くした。・・確かにちあきにはそうした重い理由がある。・・・・・歌わないのか、歌えないのか・・そんな還らぬ理由を探して本書は旅を始める。・・・さらに、なぜ人はちあきなおみに魅せられてしまうのかという問いだ。・・ここ数年、CD不況の時代にありながら、驚くほどの点数の楽曲が蘇り、中には発売当時を上回る売上を示しているものさえある。NHKでもテレビ東京でも、ちあきなおみを題材とした番組が制作され、放映回数を伸ばしている。・・・・夭折でもなく、二度と舞台に立たぬと引退を宣言したのでもない。あくまで「休業中」の歌手が巻き起こしているブームなのだ。・・・・もう一つのテーマは「再会」である。・・・今日のちあきなおみに会いたい、それが主たる願いであるが、ちあきなおみに関わった人たちに触れることで、その時代の空気と場所に「再会」できるのではないかと考えた。・・・・」
ちあきのショービジネスは5歳の日劇の舞台から始まり、途中休業のあと13歳でまた歌の世界に戻る。橋幸夫やこまどり姉妹の前座を務めたものの、幼かったちあきなおみはこまどり姉妹の一座の規律になじめず6ヶ月で去っていったという。ただ、その時代からちあきの歌唱力についての力量を示す言葉が紹介されている。
「名古屋・徳島・・どこのキャバレーに行っても、お店の人やお客から「こないだ来た子は、すごくうまかった」と聞かされたんです。無名の前座歌手が、日本中のあちこちで伝説を残していたんですから。それが南条美恵子、後のちあきなおみさんでした。・・・」
同じドサ回り歌手からレコードデビューし、TVドラマの主題歌を歌い30万枚のヒットを飛ばした姿憲子の言葉である。
「昨今のカラオケ・ブームの弊害として、「歌い歌」ばかり氾濫して「聴かせ歌」がなくなった。・・ちあきと日吉(日吉ミミ)は共に歌わせることを前提としない「聴かせ歌」の歌い手だった。・・」
ちあきなおみを語るとき、「ドラマチック歌謡」とも「聴かせ歌」ともいわれた「喝采」を作詞した吉田旺との出会いは欠かせないエピソードである。その年のレコード大賞を小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」と競い、大逆転で受賞した「喝采」はその歌詞の中に「不安定さ」さえ感じる魅力があった。
「喝采という曲は印象的なフレーズの多面体である。聴き手によって鮮烈な記憶となる箇所がこれほど異なる歌も珍しい。サビの「あれは三年前」だったり、唄いだしの「いつものように幕が開き」だったり、・・「ひなびた町の昼下がり」だったり・・・、この取材の過程でも会う人それぞれが別のフレーズを口ずさむ場面に出くわした。ただ、誰もが思うのは「黒いふちどり」という表現に関する違和感だった。・・・・」
この歌の音あわせをしたとき、作詞家の吉田はちあきなおみのある瞬間を目にしたという。
「ほんの一瞬ですけど、マネージャーに向かって「私、この歌は歌いたくない・・・」って言っていました。・・・・」
しかし、その年20万枚しか売れていなかった「喝采」はレコード大賞受賞後、翌年以降トータル80万枚以上を売り上げて、大ヒットを記録する。
1970年代の芸能界ビジネスは「歌手」が主役であった。それだけに莫大な金が動き、若い女性歌手たちはその波に翻弄され、加えて、芸能界特有の「主従関係」に基づく不信感はやがて、ちあきなおみにも例外なく降りかかっていった。デビュー前から在籍した「三芳プロ」を離れたあと、一時的に「コロムビア音楽芸能」に籍を預け、後に結婚することとなる郷が社長を勤める「ダストファイブ」に所属する。
そして、新たなエピソードが生まれる。昭和51年にシングルB面の扱いで「矢切の渡し」が発売された。石本・船村コンビによる「矢切の渡し」をコロムビア側のプロデューサーの中村は完成度の高さもあって、この曲をA面にしたかったが、ちあきなおみの判断でマイナーコードの「酒場川」をA面にして、メジャーコードの「矢切の渡し」をB面にしたという。こんなところにもコロムビアとちあき側の意識ギャップが表面化しつつあったことがしのばれる。
こうした経緯の後に、B面「矢切の渡し」は梅沢登美男が舞台の当て振りで踊る曲として選んだことで数年を経て人気を博すようになった。その時にはもうコロムビアとの契約が切れていたちあきなおみは、レコードがコロムビアから再発売されても、それを理由にTVで「矢切の渡し」をけして歌おうとしなかった。このため、細川たかしがレコード化を申し出て細川盤の「矢切の渡し」がリリースされることになるのだが、そんな事情について作曲家船村徹の話が紹介されている。
「なるほどねえ、いいところに目をつけるなと思ったよ。ただ、歌っている姿がおよそ見当もつかない。美声ではあるがたかし君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用・・細部まできっちりと聴かせる歌だから。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので「何だ、これならオレにも歌える」と世間に思わせる歌い方でしたね。・・」
折りしも、カラオケ・ブームの中で「歌い歌」である細川盤は100万枚を売り、その年のレコード大賞までも受賞することになる。もし、ちあきなおみが歌っていたら。そう考えるとまた違う興味が沸いてくる。この時点でも、有線のリクエストは常にちあき盤が細川盤を上回っていたと聞くとなおのこと「もし」を言いたくなってしまう。
ちあきなおみの再帰を促す動きは激しい。特に、NHKはBSの「歌伝説 ちあきなおみの世界」を再放送するたびに反響は大きくなっていたこともあり、2006年には再帰を促す活動を本格化させたという。しかし、ちあきなおみはまだ私たちの目の前には現れていない。著者も結局ちあきなおみに会えることなく本書を書き終えている。一貫して偏りのない書きっぷりが読み易い一冊になったと思う。読了とともに、ちあきなおみの「星陰の小徑」を聞いた。うまい歌手だとまた思った。 (正)
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