書籍名 | 東京裏返し |
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著者名 | 吉見俊哉 |
出版社 | 集英社新書(352p) |
発刊日 | 2020.08.22 |
希望小売価格 | 1,078円 |
書評日 | 2021.06.18 |
去年、吉見俊哉は『五輪と戦後』(河出書房新社)と本書『東京裏返し』という二冊の本を出している。この二冊は対になっていて、それぞれが互いを補いあう関係にあるように思えた。それは、どういうことか。
『五輪と戦後』は、2020年に予定されていた東京オリンピックを控え、その数カ月前に出版されたもの。周知のようにコロナ禍で開催が1年延期されたが(延期されたオリンピックが本当に今年開催できるのかどうか、小生は中止すべきと思うが、これを書いている時点ではまだ決まっていない)、ぎりぎりで刊行に間に合い「あとがき」の補記で延期について触れている。
この本は2020年のオリンピックを、1964年東京オリンピックを参照しながら、「あの輝かしい時代を再体験し、あわよくば再び輝かしい日本を呪術的に招来」させようとしているとの視座から批判的に考察している。そのために、オリンピックの「舞台」(競技場)、「演出」(聖火リレー)、「演技」(円谷と日紡貝塚)、「再演」(ソウルと北京)の四つの角度から1964年オリンピックを分析する。なかで『東京裏返し』と文字通り裏表の関係にあるのは、競技場がなぜそこに立地されたかの歴史的経緯を追った「舞台」の章だ。
1964年オリンピックの主要な舞台は神宮外苑の国立競技場と、水泳などが行われた代々木競技場だった。国立競技場のある神宮外苑はかつて陸軍の青山練兵場。代々木競技場は青山練兵場が移転した先の代々木練兵場で、敗戦によって米軍に接収されワシントンハイツとなっていた。どちらも軍用地だったわけだ。元はゴルフ場だった駒沢オリンピック公園も含め、これらの施設は国道246号(青山通り、玉川通り)沿いに立地している。この沿線はもともと陸軍の施設が多い「日本陸軍の中枢地区」で、渋谷も含め陸軍とともに市街地化し、発展していった。
それ以前、江戸以来の文化的商業的中心は日本橋、京橋、神田、上野、浅草、両国といった都市の東北部だった。だが関東大震災や第二次大戦の空襲で廃墟となった後、都市の中心は赤坂、六本木、虎ノ門、青山、原宿、渋谷、新宿といった都市西南部へと重心が傾く。「東京の近代とは、江戸以来の豊かな文化資産を擁する都心東北部からこの都市を離脱させ、都心西南部から郊外に広がる一帯に都市の基盤を移動させていく過程であった」わけだ。
さて『東京裏返し』は、薩長以来の政権が時に意識的に、あるいは無意識に軽視した都心東北部に焦点を当てた「社会学的街歩きガイド」。著者の吉見は、編集者とともにこの地域を7日間にわたって歩いている。例えば初日は、都電荒川線に乗って鬼子母神から王子の飛鳥山公園へ。第二日は秋葉原から上野を経て浅草へ。第三日以降は上野公園、谷中界隈、神保町から本郷の大学街、湯島聖堂やアッサラーム・マスジド(モスク)といった宗教施設を歩いたり、日本橋川と神田川を水上から観察したりしている。
都市には、「さまざまな異なる時間が空間化されて積層」している。街歩きとはその異なる時間の間を移動することであり、「重層するいくつもの時間とその切れ目を発見していく」ことでもある。その切れ目を通して、高度成長期の幕開けを告げた東京オリンピックの「より速く、より高く、より強く」から、「より愉しく、よりしなやかに、より末永く」へとスローダウンする契機を探そうというのがこの街歩きの姿勢だ、と著者は述べている。
東京から北へ荒川を越えた川口の工場街で育った小生にとって、これらの地域には小さいときから馴染みがある。親に連れられて日曜に買い物に行くのは上野か日本橋だったし、住込みの職人と浅草の六区にはよく映画を見に行った。中学高校は田端だったし、大学のそばには都電荒川線の終点があった。この地域には何人もの友人の自宅がある(あった)。だから、この本で歩いている場所のほとんどを一度は訪れたことがある。コロナ禍で東京に非常事態宣言が出、自由に街歩きできないいま、いろんな記憶や思い出とともに本書を楽しんだ。とはいえ、そんなノスタルジックな読みでは本書の上っ面をなでたことにしかならない。
鬼子母神ではギリシャ神話との関連を説き、飛鳥山では渋沢栄一と資本主義の発展を考えるといった著者ならではの博覧強記のガイドとしても面白いが、もっとも興味深いのは「スローダウンした東京」へ向けてどう都市を改造していくか、その具体的提言だろう。
吉見がいちばん力をこめて主張しているのは、都電荒川線を環状線にすること。現在は早稲田から三ノ輪までの荒川線を、南千住から浅草、上野、秋葉原、万世橋、神保町、水道橋、飯田橋、江戸川橋を通って早稲田へとつなぐ。この「トラム江戸線」を、ただの「移動」ではなく、地域のいろんな文化的・生活的機能をになうスロー・モビリティのモデルとする。「『トラム江戸線』を実現させることで、私たちは、再び東京に『トラムの街』としての貌を持たせ、この都市の交通に平均時速13~14キロという時間軸を入れることで、東京=江戸の見え方を根本から変えていけるはずです」
次に吉見が考えるのは、首都高速道路のうち江戸橋ジャンクションから入谷までの区間の廃止。この区間は交通量が比較的少ないうえ、ほかの高速道路に接続しない「盲腸線」になっているから、撤去しても影響は少ない。それによって昭和通りに青空をもたらし(実際、この区間の昭和通りは蓋をされたように暗く重苦しい)、「道路両側の街々が融合するブールヴァール的な街路にしていくことで、秋葉原や御徒町、アメ横の賑わいを東の一帯まで広げる」ことを目指す。
さらに。いま、日本橋にかかる高速道路を地下化する計画があるが、これを日本橋という「点」だけなく日本橋川沿線の「線」にまで広げる。また銀座を南北に走るKK線(京橋~数寄屋橋~新橋)を公園化して遊歩道にする提案も既にいくつか出されている。そうした動きの先に、「首都高速道路そのものを、東京都心から徐々に撤去していく」ことを著者は提案する。「ひたすらスピードを求めて環境を犠牲にしてきた都市から、環境的な豊かさをサステイナブルに維持していく都市への転換」が必要なのだ。
もうひとつ面白いと思ったのは「グレーター上野駅」の提案。JR上野駅、東京メトロ上野駅、上野広小路駅、上野御徒町駅、御徒町駅、仲御徒町駅、京成上野駅は現在でも地下通路で結ばれているが、分かりにくい上に移動のための殺風景な通路でしかない。この地下を整備し、湯島駅も含めて「グレーター上野駅」を生み出す。地上では、上野駅正面玄関口は改装されたとはいえ、本来の可能性を十分に生かしていない。正面の視界を高速道路にふさがれ巨大デッキも設置されて、「高度成長期の機能中心の開発主義の産物が幾重にも歴史を寸断している」。ここを緑化した駅前広場とし、トラムで浅草方面と結ぶことで「昭和はじめのモダン東京を象徴する風景」を再現させる。「周辺地域との関係を、歴史を踏まえてデザインし直す」ことが求められる。
吉見にはさらに、上野公園と不忍池についても提案している。かつての寛永寺の寺域で彰義隊戦争の舞台になったここは、薩長政権によってその記憶と歴史をずたずたにされてきた。まず、彰義隊と官軍薩摩藩部隊の市街戦の舞台となり、現在は南千住の円通寺に移築されている黒門(寛永寺総門)を元の場所(上野広小路から桜並木への入口付近)に戻す。五重塔が動物園内になり柵で分断された東照宮を、大鳥居、石灯籠の参道、社殿、五重塔を一体として整備する。200基以上の石灯籠に灯りを灯し、上野の杜の夜を演出するなどして「寛永寺以来の文化資産を再浮上」させる。また不忍池は一部が動物園になって一周できないが、誰もが自由に散策できるよう「不忍池の封鎖解除」を進める。
今は影の部分になってしまった寛永寺の栄華を、そのように「裏返す」ことで「近世江戸の宗教文化を再体験できる地域としてデザインし直す」。後の本郷のパートでは、高い塀がつづく東京大学東端の池之端門周辺を不忍池・上野に向かって開き、活性化させてはどうかとも言う。
ほかにも、今は高速道路で蓋をされ、建物が醜い裏側を晒す川筋を見直して「裏返す」ことが提案されている。実際、日本橋川や神田川を船で進むと、川に面する側を意識した建物もぼつぼつ現われはじめている。まだ行政は関心を持たないが、埋もれたり壊されかけている文化資産を新しい視点で「裏」から「表」へ裏返す試みは、都心東北部のいろんな場所で動きだしているのだ。
クールな吉見が熱く語るトラム江戸線や高速道路の撤去、グレーター上野駅が実現した風景を夢想してみる。時速13キロで移動するトラムから見る東京は、古くて新しいヒューマン・スケールの街。懐かしい過去のような未来。それが成熟した国の首都というものだろう。少なくとも、オリンピックや万博やカジノといった「高度成長の夢、もう一度」の都市開発は、もういらない。(山崎幸雄)
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