書籍名 | 宝ヶ池の沈まぬ亀 Ⅱ |
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著者名 | 青山真治 |
出版社 | boid(592p) |
発刊日 | 2022.12.25 |
希望小売価格 | 3,850円 |
書評日 | 2023.06.15 |
本書は2022年3月21日に食道がんで亡くなった映画監督、青山真治(享年57)が死の直前まで記した日記だ。青山は『EUREKA ユリイカ』(2000)でカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受けたのをはじめ、『サッド ヴァケイション』『東京公園』など国際的にも評価の高い映画を何本もつくった。『EUREKA』を自らノベライズした同名の小説では三島由紀夫賞を受賞しているし、映画に関する著書もある。また高校時代にバンドを組んでいたから自作で映画音楽も手がけるなど、多彩な才能を発揮した。ミニシアター系だから興行的に大ヒットした作品はないけれど、どの映画、たとえ失敗作といえそうな映画にも、凄い、と唸るしかないショットが散りばめられている。
この日記はウェブ雑誌に連載されたもので2020年9月から、未発表のままパソコンに保存されていた22年3月までの1年半。実はこの本を読もうと思ったのには評者の個人的理由もあって、この期間は小生と連れ合いが続けてがんを発症した時期にあたる。またコロナ禍とも重なっている。小生が抗がん剤治療、寛解、間もなく連れ合いが発症、看病、介護という時期に青山真治はどのように病気と闘っていたのか、という同志的(?)関心もあった。
日記は20年9月、青山が病院から退院したところから始まる。本書はタイトルからわかるように日記の続編「Ⅱ」で、未読の「Ⅰ」にはそのあたりの事情が書いてあるのだろうが、どうやらアルコール依存からくる低血糖と、呑んでは吐くを繰り返して倒れたらしい。日記には、体力を回復するために自転車に乗り、朝粥を自分でつくるリハビリ生活のなかで、一日の多くの時間をすさまじいまでの「勉強」に費すさまが記されている。勉強の中身は映画(DVD)と音楽(レコード、CD)と読書。その勉強のなかから映画の新しい企画が生まれ、途中からシナリオも書きはじめる。その合間に痛みや発作や呼吸困難が来るのだが、それをやりすごすと、またすぐに映画と音楽と本に戻る。600ページ近い本書のあらゆるページから発されるその気力とエネルギーは、同じくがんを経験した身からすれば信じがたい。
「お粥と自転車と読書と写経(と称して、谷崎『春琴抄』の書き写し)と(ジョン・)フォードと(ラオール・)ウォルシュ、これらによって一日は完璧な形で費やされ、これこそ望んでいた生活である」
「かつて『モノクロホークス全部』や『39年までのフォード全部』『溝口全部』『小津全部』『ムルナウ全部』は成功したものの、それ以降企画倒れに終わることもしばしばで『モノクロルノワール全部』も『モノクロウォルシュ全部』も途中挫折、『ドライヤー全部』は目下『奇跡』一本きり、『西部劇以外のアンソニー・マン全部』も最初の一本のみで空振りもいいとこ。そこに『サーク全部』が足枷として乗ってくる。どれも一度は見ているとはいえ。いい加減一本化してグッと締めていきたい」
ここに挙げられている監督の映画はすべて古典だけど、絨毯爆撃のように次々にDVDを鑑賞する。旧作だけでなく、新作を見に映画館にも出かけて、そのコメントがまた青山らしい。見たのはペドロ・コスタ監督の『ヴィタリナ』。
「超ド級の大傑作だと自信を持って言おう。見事なほど的確な、というか私の好みなのだろうが、初めてデジタル撮影を称賛できた。九割がたナイター(ナイトシーン)といっていいと思うが、時折這入るデイシーンがこれまた何とも絶妙な時間の光を狙っていて、そうした光と影の推移を見ているだけで満足できる。いや、そうではなく映画とは元来そういうものである筈で、話などあってもなくてもどうでもよろしい」
「光と影の推移を見ているだけで満足できる」「話などあってもなくてもどうでもよろしい」とは、青山真治の映画の特質を見事に言い表している(別の日に彼は「因果律にまみれた現在の日本映画」という言い方もしている)。もっとも、それが青山映画のスタイルであるのは確かだけど、でも平凡な映画ファンとしては、映画はああなってこうなる因果律のあるストーリーも大事な要素でしょ、と言ってみたくもなる。
映画や音楽もそうだが、読書も何かに関心が向くと関連本が次々に気になり、購入してしまう(寡作の映画監督として毎月のアマゾンの払いはどのくらいだったか、心配してしまう)。退院直後は新しい企画に関する歴史本に関心が向いている。
「午前中から午後にかけて読書。歴史関連本読了。岩倉具視関係なのだが、あまり知りたいことを知れなかった。というかほぼ知っていることばかりだった。……読まねばならない本が多すぎるとか言っていたら岩波文庫『太平記』全六巻などというものが届いてしまった。もうちょっとこの辺でいい加減にやめておきたい」
新企画にからんだ歴史への関心は、さらに柳田国男、宮本常一、網野善彦へと続く。読書だけでなく、古典を一文字一文字書き写す「写経」は谷崎から漱石「こころ」、一葉「たけくらべ」(「この躍動感。この生命力。写しながらひたすら感動」)へと続く。だけでなく、大学で英米文学を専攻したからか「翻訳と原書の見比べがここしばらく最も夢中な趣味になりつつあり」、あげく「趣味の翻訳」に手を伸ばす。訳すのはフォークナー「サンクチュアリ」。
音楽への興味はバンドをやっていたこともあって、素人の域を超えている。「レコ屋巡りギター屋巡り。渋谷の街があちこち変わっているのに驚く。……レコ屋もギター屋も心和む数少ない空間」。レコードやCDを聴くだけでなく、ラジオの「バラカン・ビート」と「山下達郎 サンデー・ソングブック」がお気に入り。がんを告知された後は、それまであまり聴いていなかったらしいジャズ、それもオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンのフリージャズのすべての盤を聴きはじめる(「フリーにロマンは、心はない。というより心をなくすための音楽である」)。
こんな映画や小説や音楽への関心は、それぞれが別個のものではない。青山のなかで、ひとつにつながっている。例えば1970年代の映画『北国の帝王』(ホーボーを主人公にした痛快アクション映画だった)から新作『ビーチ・バム』へとつながる人名や作品を列挙したこんな一文。
「アメリカの『自由』が大恐慌以後そのオルタナティブなラインとしてスタインベックからフォード『怒りの葡萄』を生み、一方でウディ・ガスリーからディランに繋がり、もう一方でエリック・ホッファーやネルソン・オルグレンやビートに、つまりケルアックへと流れ、彼に『ジェフィ・ライダー物語』を書かせ、そこからさらに例えばジャームッシュの諸作へと至る、いわばアウトサイダー文化の大きな潮流となり、この国に存在しないそれをあえて考えるなら『寅さん』が末席を濁す感じかもしれないが、それが現在、ホーボーたちを地の果てマイアミでルノワールや小津と出会わせ、もしくは七福神と出会わせ、bumとしての達磨さんや布袋さんや恵比寿さんのコスプレをマコノヒーにさせ、鯛の代わりに白い子猫を抱かせて船の先に乗せたのがつまり『ビーチ・バム』だ」
青山真治は何を見ても、読んでも、聴いても、その刺激によって脳内でこんなふうに彼だけの曼荼羅図が渦巻いているらしい。
とはいえ病気は容赦なくやってきて、がんが発覚する。「全身が痛み、食べても痛み、ダウン」(21年4月)。「内視鏡検査。喉の痞えは食道に潰瘍ができたせいで、幅二センチほどの膨らみがある。薬物治療で大丈夫」(5月)、「化学療法。一種類め、これはかなり強いもので割と副作用も重いらしい。続いて二種類め。46時間かかる。一種類めの終わり頃に放射線治療」、「第二の薬を入れる際、刺さった針からその周辺を急激な激痛に見舞われる。それを境に次々と薬の副作用が繰り出され、前後不肖」。
その後も「完全寛解とは言い難い状況」(10月)で入退院を繰り返し、鎮痛剤で痛みを抑えながらの化学療法がつづく。「病院へ。転移再発の可能性」(12月)。年が明けて1月。「病院へ行くと、どうやらよろしくない状況、明日入院と即決」。「一日の覚醒時間の三分の一を占める間歇的な嘔吐感」。2月。病院へ。「おかみさん(女優のとよた真帆)、来たる。三者面談、というか通告。シビア」。「胃瘻を設置する」。3月。「来るべくして来た結果が報告された。三回投与された抗がん剤は効果なし、余命半年以下。秋から想定はしていたのでそれほどの驚きもショックもなかった、お互いに穏やかに事実を認め、受け入れ、真穂(おかみさんの本名)は家に帰り、私は冷静に同僚たちへの報告の手紙を書いた」。
がんを病んだ以後も「勉強」は続いている。その最後の日々に記された、記憶に残る言葉をいくつか引いてみる。
「もうどこにも出かけることはせず、この世の『耻』と『疵』と『痛苦』とともにあるために、森の礼拝堂のような場所で集中すべきなのだろう」
「鎮痛剤を服用して良き読書良き映画鑑賞良き音楽鑑賞をして誰にも読ませるでもないものを書いていればそれで満足な余生を送りたいと思う」
「然るべき瞬間に然るべき位置に『霊性』が映り込んでいることが演出の主眼であって、それ以外はそんなに重要ではない」
「霊性とは、宇宙の中の生命の自覚である。とりあえず、それだけで良い」
「世界をドミニク・サンダのように清廉に感じてもいる」
この本を読みながら、青山真治のスタイルをまねて何本かの彼のDVDを集め、見直したり、初めて見たりしていた。20年ぶりくらいで見た『Helpless』『EUREKA ユリイカ』『サッド ヴァケイション』の「北九州3部作」はいま見ても新鮮で、地方都市を舞台にざらざらした時代感覚に引き込まれる。珍しく他人(荒井晴彦)の脚本で撮った『共喰い』はドラマとしての完成度が高い。はじめて見た『こおろぎ』は海外の映画祭に出品されたきり、国内では公開されなかった。製作サイドのトラブルらしいが、内容も斬新というか大胆というか、いろんなことが説明されずに放り出されている。「話などどうでもよろしい」「光と影の推移だけで満足できる」という青山の言葉を文字通り体現した作品。とはいえ、光と影に敏感な監督だけに青山は女優をきれいに撮る。この映画の鈴木京香はなんともなまめかしい。
遺作となった『空に住む』(2020)でもそれは変わらない。外部から持ち込まれた企画らしく、映画の出来は必ずしも満足のいくものではなかったかもしれないが多部未華子が美しい。殊にラストショット、タワマンの窓辺で彼女が空に向かって伸びをするバストショットは、「世界をドミニク・サンダのように清廉に感じてもいる」という言葉とシンクロしていると思われた。このショットが遺作の最後の画面だったことに、本書を読んだ後では深く納得する。(山崎幸雄)
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