こんな日本人もいる。世界に雄飛する賭人人生
書籍名 | 博奕の人間学 |
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著者名 | 森巣 博 |
出版社 | 飛鳥新社(254p) |
発刊日 | - |
希望小売価格 | 1,500円 |
書評日等 | - |
「人間は賭けをする動物である」と喝破したのは「エリア物語」を書いたラム、世界の賭場、賭人と渡り合い、今なお現役の著者がその間の22冊の「カシノ日誌」を基に記した激闘の書。
すべての道はカシノに通ず
カジノではない、カシノが正しいといった博奕用語の解説が随所に登場、さらに世界の賭場で交わされるその国の独特のタームが勉強になる。
例えば「ファック」という言葉は汚く、「ボンク」が適切という具合。本拠は豪のキャンベル、カシノ歴は30有余年、得意は「牌九」(パイガオ)で全豪選手権保持者である。
面白いのは、賭場における、あるいは人生における世界の格言の数々、アフォリズム的に使われているが、博奕は共通の言語であることが如実にわかる。「どんな博奕から出発しても、結局はカシノの博奕にたどり着く」が通底したテーマだが、その博奕で勝利を得ることはこれまた至難、堕ちゆくために博奕はあると、著者は言う。胴元がいるからだ、ただし日本の様にトート(テラ銭を取る形)ではそれが当てはまるが、ブッキー(胴を取る人)相手のみそれが当てはまらない、だから、外国では、胴人がパンクすることもある。
ゲーム性に違いがある
独特の博奕観がある。ゲーム性の高い博奕、例えば、麻雀がそう、競馬だってその範疇に入る。かつてラスベガスにも6カ月間だけ競馬場が造られたというが、カシノの刺激にはかなわず敗退している。なによりも、運、勘、そして見が効く世界が賭場だという。
例えば、碁、将棋の世界に勝手に招来する運は皆無だ。勘は自らの運気の察知力、最後の見(ケン)、ゲームを中断する、もしくは張りを小さくする、あるいは降りて立ち去る勇気、自らの頂上を見極める力だ。ルールが複雑であったり、経験や熟達の腕が要るゲームには賭金は必ずしも必要ではない、それだけで面白いからだ。
世界一の博奕国民はかの紳士の国イギリスである。1388年リチャード二世以来の禁止令の決着は「人の死にかんするものを除外する。すべての賭博の形態を許可する」の敗北宣言であった。ちなみに、この人の業に対して吉田兼好は、勝とうと思うな、「できるだけ負けをおくらせるようにしなさい」と言っているという。博覧強記の程がいささか鼻に付くことを我慢すれば、これほどの人生達観書もないだろう。(修)
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