書籍名 | 長谷川町子・私の人生 |
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著者名 | 長谷川町子 |
出版社 | 朝日新聞出版(288p) |
発刊日 | 2023.01.10 |
希望小売価格 | 2,530円 |
書評日 | 2023.05.15 |
私の頭の中では「長谷川町子」=「サザエさん」=「朝日新聞」という単純な図式が出来上がっていて、「長谷川町子の人生」などと大上段に構えられると、いささか戸惑いを覚えてしまう。今もテレビの「サザエさん」は放送を続けていることもあり、彼女がいつ亡くなったのかも気に留めていなかった。本書の略年譜を見て、1992年に72才で亡くなったことを再認識した次第。年譜によれば、大正9年(1920)生れで、13才の時に父親を亡くし、以降は母親と三人姉妹の真ん中で育ち、結婚しなかったので女性だけの家庭で過ごした一生だった様だ。
本書は「長谷川町子思い出記念館」(朝日文庫:2001年)を底本に、長谷川町子が各紙・誌に描いた挿絵を収録した上での復刻である。構成は大きく3つに分けられている。第一章は「私のひとり言」と題して、各雑誌に掲載されたエッセイや、文藝春秋漫画賞の選考委員としての彼女の選評。第二章は「おしゃべりサザエさん」と題して田河水泡、横山泰三、飯沢匡などの漫画家や作家との対談。第三章は「インタビュー・サザエさんと私」と題して記者との対話が収められている。昭和20年代から昭和50年代の40年間という時代差にもかかわらず長谷川町子自身の考え方のぶれの少なさとともに、対談相手や記者たちの意識変化や時代変化が鮮明に浮かび上がっているのも面白い点である。
長谷川町子の漫画家としてのスタートは昭和9年14才の時に田河水泡に弟子入りし、翌年には少女倶楽部に作品を発表、東京日日新聞の日曜版に連載を始めたことからも、天才少女と紹介されて華々しくデビューした当時の状況が見て取れる。戦後は一家で世田谷に居を構えている。昭和21年9月に「夕刊フクニチ」で「サザエさん」の連載を開始、一旦休載後、昭和24年12月から朝日新聞の夕刊で「サザエさん」連載を再開して、昭和26年に朝刊に移り、体調不良から休載を繰り返しながらも昭和49年2月まで連載は続いた。この間6千回以上の四コマ漫画を描き続けたというのも異例の長さである。
日刊紙に連載することの苦労を長谷川町子はいろいろ書いているが「普段あまり外出しないので、漫画の案を考えていると身体の調子を崩して胃を悪くする」と書いている様に、一年単位の休筆が何回か有ったようで、昭和42年には胃がんの手術で4/5の胃を切除している。この時には家族からも仕事を止めることを進言されていたようだ。
全国紙に連載することで国民の全ての年齢層の男女が目にすることから、笑いのネタも家族的なテーマに限られるというか制約が有る。逆に言えば、刺激のあるネタは使えないということ。まさに、家庭マンガというジャンルの中で読者の興味を引き付けて行く大変さである。実際、読者からはちょっとした皮肉な表現に関しても抗議が来たりすると嘆いているように、多様な読者との「共感」の上に四コマ漫画は成り立つという現実の厳しさは、読む側からは想像し難いことのようだ。
そうした反動からか、昭和38年に「意地悪ばあさん」を描き始めている。週刊誌の「サンデー毎日」であれば読者層も大人に限定され、より強いひねりの効いた笑いを表現できるという自由度が彼女のストレスを解消させたと語っているのが印象的。
文芸春秋漫画賞を昭和37年(第8回)に受賞。その時「正真正銘の日本人の生活を土台にした笑い」と評されたと長谷川は記しているのも、狙い通りという事か。そして、昭和43年から昭和51年まで同賞の選考委員を務め、各回の選評が本書に収められている。小島功にはじまり、鈴木義司、東海林さだお、山藤章二、赤塚不二夫、馬場のぼる、手塚治虫など、そうそうたる漫画作家達の評価・選考をしているのだが、彼女が彼らの作品をどう見ていたのかについても楽しめる所。第18回では「ついに『天才バガボン』の赤塚不二夫氏を推しました。正直なところ余白の多い大人漫画を見慣れた目には漫画がゴタゴタして読み難かったですが・・・・・笑いのコツをよく心得た笑らわせ漫画」と率直に自分の考えを言葉にしている。
田河水泡、横山泰三(毎日新聞・プーさん)、秋好馨(読売新聞・轟先生)と言った漫画家たちとの対談もお互いに言いたい放題で面白い。それらの対談の実施が昭和20年代という時代背景もあるのだろうが、各自の漫画論はともかくとして、長谷川に投げかける質問も「令和」の時代では考えられない直球が多い。横山は「なんで結婚しないのか」とか「女性の漫画家は難しいのでは」と質問し、それに対して「別に、結婚しないという誓いを立てているわけではない」とか「逆に男の人にない目線で題材を掴める」と長谷川はまっとうに反論している。また、横山は「やっぱり結婚しなきゃだめだ。結婚しなくても恋愛でも良いけど。一度は結婚して、子供を持ってみなければ大人に見せる漫画は描けない」と言い放つ。秋好は「サザエさんは奥さんなんだから、もう少し色気が有って欲しいな。人妻らしい色気」と身勝手な期待をしている。師である田河水泡も「いろいろな経験をして、大人にならないと漫画は描けない。長谷川さんは荒唐無稽はやらないね」という発言に対して長谷川は「サザエさんは生活漫画・家庭漫画ですから!」と反論しつつ、「アイデアは自分一人。材料の限界は女で独り者・・・エッチな話でも男ならカラッと言えるのに女が言うといやらしい」と一人嘆く彼女も居る。
そしてメディアの進化とともに、テレビのアニメのサザエさんが昭和44年に始まる。劇作家の飯沢匡との対談で番組の感想を聞かれると「テレビのサザエさんは見ていない」と長谷川は答えている。飯沢は「あなたが描いたものじゃなく、別物ですからね」と納得。確かに、原作は長谷川町子というだけで作画もストーリーも別に作る人が居る。そう考えれば彼女のさっぱりした性格が良く出ている答えなのだろう。
昭和49年に対談した記者は「サザエさん抜きの長谷川町子は考えられないが、あまりにもサザエさんの殻に閉じこもり過ぎて自由を失ったのではないか」と表現している。一方、長谷川町子は「辛いのは、読者から長谷川町子とサザエさんを混同されること」とも言っている。読者から見るとまずは「サザエさん」があっての長谷川町子なので、彼女は「作者以上」でもなければ「以下」でもない。そう考えると、頑張って描き続けてくれたという思いが湧き、お疲れ様という気持ちで読み終えた。
子供の頃の我が家では朝日新聞と読売新聞を取っていたので四コマ漫画は「サザエさん」と「轟先生」。加えて、両親は文芸春秋の別冊の漫画読本を読み、小学生の私や兄は杉浦茂に代表されるナンセンス漫画で腹を抱えて笑っていた。まあ、漫画好きな一家だったかもしれない。新聞四コマ漫画が「家庭・家族」の日々の微笑ましさの原点であるとすると、自分の家庭と同様、四コマ漫画も永遠に続くように思って読んでいた読者は多かったのではないか。
本書を読んでいる途中で散歩がてら、世田谷の桜新町にある長谷川町子美術館と記念館に行ってきた。美術館は長谷川町子が集めていた絵画や工芸品を展示するために作られ、後に長谷川町子の作品展示のための記念館が併設された。駅からサザエさん通りを抜けた静かな住宅街に佇んでいる。(内池正名)
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