はじめての近現代短歌史【髙良真実】

はじめての近現代短歌史


書籍名 はじめての近現代短歌史
著者名 髙良真実
出版社 草思社(336p)
発刊日 2024.11.06
希望小売価格 2,530円
書評日 2024.12.17
はじめての近現代短歌史

始めに断っておくと、短歌史に興味があるわけではない。何人かの歌人の歌を好むけれど、脈絡もなく出会った彼らの歌が単に好きになっただけで、短歌の世界の外、せいぜい周辺にいる一読者として系統立った短歌史まで知ろうとは思わない。でも本屋で立ち読みしていたら、冒頭に「短歌史とは秀歌の歴史のことです」とあり、思い出すことがあった。短歌(和歌)に初めて惹かれたのは、高校の授業のサブテキストとして買った斎藤茂吉『万葉秀歌』(岩波新書)だった。五千首近い『万葉集』のなかから茂吉がその一割ほどを選んで評釈し、「目的は秀歌の選出にあり、注釈は従」と彼も書いている。とすれば同じ趣旨を持つらしいこの本で、今まで知らなかった近現代の秀歌を読めるのではないか。

秀歌集となれば、言うまでもなく誰が選んだかが問題になる。万葉から秀歌を選んだのは、高校生も知る大歌人だった。その高名と信頼があるからこそ授業でも使われたんだろう。一方、本書の著者・髙良真実(たからまみ)という名は初めてだった。末尾の略歴を見ると、1997年生まれの歌人、文芸評論家とある。短歌誌『心の花』(編集発行人は私が好きな佐々木幸綱)に所属し、短歌評論で賞も受けている。20代の若い女性歌人が選ぶ秀歌とはどんなものか。そんな気持ちで読んだ本だから、本文である短歌史の記述そのものについては云々する知識も力もない。選ばれた短歌について、勝手な感想を書くことにする。

第一部で「作品でさかのぼる短歌史」と題して、67首が時代を遡りながら紹介されている。40ページ弱で現代から昭和、大正、明治まで150年間をあっという間にたどる、そのスピード感が面白い。冒頭にあるのは「2021年以降の短歌」で、もちろん読んだことのない歌ばかり。

 平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビールこれが夏だよ(岡本真帆、2022)

 数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4(青松輝、2023)

前者はSNSでバズり、「ごらんよ〇〇これが××だよ」と、たくさんの模倣歌を生み出したという。後者について著者は、「謎の多い歌ですが、『4』は死にも詩にも通じ」ると書いている。で、そこから1970年代の多少は知っている歌を経て、見る見る時代を遡り最後に来る(近現代の冒頭を飾る)のは与謝野晶子。

 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

名歌ですね。この章では例えば石川啄木の歌は選ばれず(歌そのものの評価というより短歌史的な文脈においてでしょう)、第二部で紹介されることになるが、有名歌でなくこんな歌が選ばれているところに著者の姿勢を感ずる。

 思ふこと盗みきかるる如くにて、/つと胸を引きぬ──/聴診器より。

第二部では、7つの章に分けて「トピックで読み解く短歌史」がたどられる。これは知識に乏しい私の推測だけど、本書の歌選びと記述にはふたつの特徴があるのではないか。ひとつは、女性歌人の歌が多く採られていること。いまひとつは、「昭和40年代以降」(特に俵万智のサラダブーム以降ですね)の歌が多く紹介されていること。著者の経歴を見れば、それもあながち間違っていないような気がする。

女性歌人の歌は、与謝野晶子以後、自然主義全盛のなかで「女」を歌ったため軽視された歌を選び出したり、戦後、集団をつくって活躍した歌人たちの作品が紹介されている。そのあたりからも分かるように、著者は歌壇の男性性や彼らの男歌に違和を感じているらしい。それは高良の師匠筋と言えそうな佐々木幸綱の、

 サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず

へのこんなコメントからも伺える。

「佐々木幸綱は男歌の代表格として評価を受けています。恋愛対象の相手を『あどけなき汝』と呼び、相手の幼さに対して大人の余裕を持った主体自身を演出する構図を読み取ることもできるでしょう」

「昭和40年代以降」について、その前半は「学園闘争世代の短歌」と呼ばれ、福島泰樹、道浦母都子や同世代の河野裕子の歌には年齢的にも近いから親しんできたけれど、俵万智(師は佐々木幸綱)と穂村弘の出現を機に短歌の世界も大きく変わったんだな、という印象を受けた。俵万智の口語・会話調の歌は広く知られているが、穂村には例えばこんなのがある。

 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ(1990)

俵・穂村以降の若い歌人の歌は全くと言ってよいほど読んだことはなかったが、日常の微細なショットと、そこからのズレを歌って、なるほどなあと思ういくつもの歌が見つかった。

 ファミリーがレスってわけか 真夜中のファミレスにいる常連客は(枡野浩一、1999)

 右耳に秦の始皇帝棲むというきみの秘密を打ち明けられて(田中槐、2003)

 雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって(盛田志保子、2003)

 あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず(光森裕樹、2010)

 マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる(仲田有里、2017)

仲田の歌について著者は、「背後に世界の捉え方を無理にでも明るくしようとしている感覚があり、ゼロ年代の暗さが透けて見えます」と書いている。

伝統的な短歌は戦後、その感性と定型を「奴隷の韻律」などと批判されたけれど、だからといってそれは服を着替えるように簡単に脱ぎ捨てられるものでもなく、若い世代も否応なくそこに囚われ、こだわり、もがき、表現しようとしているのだなあと思う。

短歌的抒情は戦争とも相性が良く、たくさんの愛国的な歌がつくられた。それが戦後の「奴隷の韻律」や「第二芸術論」という批判につながったのだろうが、本書にはそうした歌とは距離を置いて戦争を見つめた短歌も選ばれている。どれも初めて接する歌だった。

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す(宮柊二)

 銃剣をひきぬきしかば胃袋よりふきいづる黄いろき粟粒みたり(香川進)

 遺骨用に指を切りとり缶に入れこれを焼却 指骨をとる(中野嘉一)

宮柊二以外は知らない歌人で、これらの歌が従来どんな評価を受けているのか知らないけれど、こういうものを選んで紹介するあたりにも著者の短歌史への関心のありかが見えるような気がする。

最後に、この本を読み終えて心に残った歌をひとつ。

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり(馬場あき子)

(山崎幸雄)

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