「空(くう)」という場所に近づく実践的な方法論
書籍名 | 仏教が好き! |
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著者名 | 河合隼雄・中沢新一 |
出版社 | 朝日新聞社(264p) |
発刊日 | 2003.8.30 |
希望小売価格 | 1400円 |
書評日等 | - |
仏教がブームになっている。これまでは専門書か人生論ふうな説法しか書店になかったのに、ふつうの読者向けの仏教本がベストセラーになり、週刊誌形式の仏教読本が出版されている。年に30万人のお遍路さんが四国八十八カ所をめぐり、瀬戸内寂聴の法話に観光バス数十台を連ねた善男善女(実体はおばちゃん)がつめかける。
誰もが不安をかかえている。その時代的背景についてはいろんなことが言えるだろうけれど、要するにいま、みんなが「癒し」という言葉に象徴される手軽で簡単な「救い」を求めている。そのひとつの現れだといえばいいのか。
そんななかで、ユング派心理学の河合隼雄と宗教学の中沢新一が対談した「仏教が好き!」は、いっぷう毛色の変わった仏教本になった。
書店にあるたいていの仏教本は、どこか啓蒙的だったり、歴史書ふうだったり、ハウツーだったり(在家仏教の勧めとか)、人生論だったりするけれども、この本はそうした仏教本からは意識的に遠ざかっている。
年長の河合が「生徒」になり、若い中沢が照れもせず「教師」になって問答をするこの本で、中沢は最初に、「頭の先からつまさきまで、河合先生のこれまでまったく知らなかった仏教を語ってみせましょう」と自負を披露している。
中沢新一は若いころチベットに行き、チベット仏教の修行をした。「僕は仏教徒ではありますけれども、仏教学者ではありません」という中沢の仏教とは、僕たちがイメージする仏教、鎌倉時代に日本に土着した親鸞や日蓮の仏教を正統な日本仏教とすれば、それとはかなり違う。
身体的な体験を重視し、時に神秘主義にも近づくその仏教理解は、しいていえば空海がもたらした密教に近いのだろうか(横道にそれれば、麻原彰晃の仏教理解も日本仏教を経由していないから、その点でこの二人は思想的親近感をもったのかもしれない)。
中沢の語りは河合=釈迦の掌で踊っている気味もあるけれど自由奔放、気の向くままあちらに飛び、こちらに逸れ、まとまりはないけれども、面白いヒントがそこここにちりばめられている。「仏教は全体として矛盾だらけだが、矛盾したものの全体がそのまま仏教」(中沢)というありかたにふさわしい、とでも言おうか。
とはいえ僕の理解するかぎり、中沢が語っている仏教の中心は、魂の最終的なありかとしての「空(くう)」という場所(にあらざる場所)にどう近づいていくかという実践的な方法論であり、それはまた「原仏教」を発見することだという言い方もされている。そこは神話やシャーマニズム、アニミズムとも隣接した場所である、とも言われている。
いくつかの発言を抜いてみる。
「(釈迦が)涅槃に入ったとき弟子たちよりも動物がたくさんやってきて悲しんでいる。人間と動物が対称的(評者注=上下関係がない、とでも理解しておけばいいか)だなんて、いかにも童話的というか、神話的な光景のように見えるけれども、宗教の歴史は人間と神の間にいかに非対称の関係をつくりあげるかに全力をあげているのに、ひとり仏教だけが、大宗教でありながら対称的関係を重視している」
「ユダヤ教でもキリスト教でも、神はお父さんですね。ところが仏教は「空」という女性的なもののなかに入っていこうとしている。人間の認識が辿りつく到達点を「般若波羅蜜多母」=「認識のお母さん」と呼んでいます。仏教の修行は、この「認識のお母さん」という巨大な女性的なるものへ、自分の存在まるごと抱えて入っていくことを意味します」
「チベット人のお坊さんから、僕が最初に学んだことは「仏教とは楽になるための正しい教えである」ということでした。「あらゆる生き物が楽になりたい、と思っている。でも楽になるための正しい方法を知らないので、苦しみから逃れることができない。仏教はそこで、本当に楽になるための正しい道を教える」。「楽」は英語で「ハッピー」というより「リラックス」という気の抜けた言葉のほうが、言いたいことをよくあらわしていると思います」
中沢がこんな発言をするとき、その対極に想定しているのは「非対称的」(上下関係、あるいは絶対的なもののある、とでも理解しておけばいいか)な宗教のあり方である。キリスト教がそうだし、イスラム教もそうだ。そして「非対称的」な宗教はしばしば国家と結びつく。
そんなあたりから派生して、ほかにも興味深いテーマがいくつも語られている。
たとえば、インドの古代帝国に庇護されながら、帝国を内部から解体させる原理を産んでいった原始仏教と帝国との関係。そこからは、グローバル化が進む21世紀の帝国支配と仏教との関係が問われてくる。中沢は、強大な一神教に対して単に多神教を対置するだけでは結局のところ負けてしまう、仏教の「対称性」を維持しつつオルタナティブな方法を考えなければならないと言う。
またたとえば日本仏教に関して、ヨガなどの身体的体験を重視しなくなった仏教が、戒律を観念的にとらえなおしたときに親鸞などの思想が生まれ、それが明治以降の近代人に大きな影響を与えたという。
日本に入った仏教は鎌倉期にようやく日本人の考え方と溶けあった(浄土真宗の「自分が大きな力に生かされていることに感謝する」という考えに代表される)が、それは縄文時代のアニミズムと仏教の高度な表現が合体した結果であること……などなど。
中沢がここで僕たちに見せてくれる仏教は、例えば現代日本で仏教を語れる数少ないもうひとり、梅原猛の語る仏教と鮮やかな対比をなしている。
「人間には誰しも愛欲があり、それをなくすことはできないが、愛欲をコントロールする自己管理の教えが釈迦のいう悟りです」
「仏教は多様だけれど、平等、知恵による自由、慈悲、この三つがある限りいかなる仏教も仏教です」
「人を殺してはいけないばかりでなく、生きとし生けるものを殺してはならない」(いずれも「梅原猛の授業仏教」から)
時に難解な中沢の語りと対照的な平明さと現実性。梅原の仏教が、日本国憲法をもった戦後日本という原点に照らして仏教の世俗的な力をもういちど取りもどしてみようという試みだとすれば、中沢の仏教は、「原仏教」のエネルギーと可能性を世俗ではなく精神のありようとして回復しようとする試みだと言えるだろうか。
いずれにしても、既成宗派が宗教としての実質を失ってしまったなかで、戦後日本でほとんど省みられなかった仏教の力を再興しようという意思では共通している。
中沢も梅原も言うように仏教は多様で、矛盾だらけでもある。その多様で矛盾した宇宙のどこに、各自の「仏教」を読みこむか。それが許されるのが仏教の面白さでもあるらしい。(雄)
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