米軍が見た東京1945秋【佐藤洋一】

米軍が見た東京1945秋


書籍名 米軍が見た東京1945秋
著者名 文・構成 佐藤洋一
出版社 洋泉社(224p)
発刊日 2015.12.23
希望小売価格 2,592円
書評日 2016.01.20
米軍が見た東京1945秋

敗戦翌年の1946年、『東京一九四五年・秋』(文化社)というザラ紙64ページの写真集が発売された。版元の文化社は、戦中に対外宣伝グラフ誌『FRONT』を刊行していた東方社(中島健蔵、林達夫、原弘、木村伊兵衛ら)のメンバーが、敗戦後間もなく立ちあげた編集・出版工房。その最初の仕事『東京一九四五年・秋』は、木村伊兵衛ら旧東方社の写真家によって撮影された「終戦後の東京の、生活のルポルタージュ」(木村)である。

この写真集のタイトルを意識した本書『米軍が見た東京1945秋』は、同じ敗戦直後の東京が米軍によって撮影された写真で再現されている。米国立公文書館でこれらの写真を発掘した佐藤洋一は、「この激動の1年間の風景を写し出した物的な資料は、日本には意外なほど残されていない」と書く。

文化社の写真集は、露店に集まる人々が上着を着ているし、占領軍による英文の道標も整備されているから、暑さの去った9月後半以後に撮影されているらしい。『米軍が見た東京1945秋』を見ていちばん興味をそそられたのはそれ以前、連合軍が上陸し、占領が始まった直後の写真がたくさん含まれていることだった。

本書の構成は、1945年1月から5月にかけての空襲で焼失した地域の空撮、皇居や隅田川、浅草や銀座といったテーマやエリアごとにくくられている。そこから見えてくるものがたくさんあるけれど、8月15日直後の東京がどんなだったのか、占領がどのように行われたのか具体的に知らなかったので、佐藤の解読に従いながら時系列に沿って見直してみた。

米軍によってこれらの写真が撮られた目的は、爆撃の効果を検証する「調査写真(サーベイフォト)」や、占領政策を立案するための調査、「米軍の活動の記録」などにある。8月15日以後、最初に撮影された写真は25日、偵察機から撮られた「三宅坂交差点付近」である。この時期、日本政府はポツダム宣言を受諾したものの、まだ連合軍は上陸していない。内堀と交差点、周囲の焼け跡が写された写真からは、道路を走る市電と、それを待つ人々が識別できる。8月15日以前に撮られた写真が高高度の偵察機から撮影されているのに比べれば、ぐっと高度を下げているのがわかる。三宅坂は皇居のそばにあるから、おそらく皇居を目標とした偵察飛行で撮影されたものの一枚だろう。皇居はこの時期の米軍にとって最も関心の高い場所だったから、その後数日、たびたび撮影されている。焼失した宮殿がなまなましい。

26日には品川が、27日には日本橋が空撮されている。同時に亀戸、神田、浅草橋、南砂町など空襲に遭った地域も撮影されている。敗戦後の東京について、「見渡す限りの焼野原」という形容がよく使われる。物心ついたのが1950年代に入ってからの小生にとって、その言葉に対応する記憶はない。焼け跡の写真は単発では見ているけれど、これだけ東京のさまざまな場所の焼け跡を次々に見せられると、その言葉が実感できる。本当に、すべて焼けていたんだ。

亀戸、神田など焼失地域の写真は、先の「三宅坂」より高い位置から撮影されている。人影は識別できず、高高度の上空からの視線は冷たく無慈悲という印象を与える。都市の非戦闘員殺害を前提とした「戦略爆撃の思想」(前田哲男)をそのまま視覚化した写真群と言えるだろう。米軍は上陸を目前に控え、現在の東京がどのようになっているのかを把握するため、東京全域を偵察飛行している。

同じ27日には大森捕虜収容所が撮影されている。捕虜の米兵十数人が屋根に上って偵察機に手を振っている。屋根には「P.W.(Prisoner of War)」と大書されている。これは、連合軍が敗戦後の日本政府に捕虜収容所の位置が分かるよう要求したことによる。翌28日には新宿区の聖母病院(連合国民抑留所)に救援物資を投下している写真もある。この日、相模湾に集結した連合国艦船群の写真があって、上陸の迫っていることが分かる。

30日、米軍が富津(千葉県)と横須賀に上陸する。銃を持った兵士が上陸用舟艇から波間に飛び降り海岸を目指して走る。へえ、こんなふうに上陸したんだ。戦闘は既に停止されているんだから、艦船を港へ横付けしたのではないかと漠然と思っていた。それだけに驚きだった。

この構図には見覚えがある。ロバート・キャパが撮った有名なノルマンディー上陸作戦の写真だ。キャパは銃弾が飛び交うなかで撮影したからカメラはブレ、それが緊迫感を生んでいた。富津でも横須賀でも陸から銃弾は飛んでこない。とはいえ日本はまだ正式に降伏したわけではない(降伏文書署名は9月2日)。実際に8月15日直後、軍の一部には降伏を肯じず抵抗する動きもあった。その情報を米軍がつかんでいたかどうか知らないが、なにがあるかわからない敵地への上陸は緊迫した一瞬だったろう。
 
米軍が上陸し初めて地上で撮った写真は、上陸当日から9月1日までの間に芝、銀座、浅草で撮影されている。芝の焼け跡は第一京浜沿いで、たぶんジープの上から撮られている。ここは横須賀から東京に向かうルートに当たる。銀座では4丁目交差点近くの焼け跡を米兵が調査している。銃は持っていない。晴海通りを歩く日本人が小さく写っている。浅草六区の写真では焼け跡を歩く日本人3人が写りこんでいる。カメラを見ているが、恐れるでもなくかといって興味をもって立ち止まるでもなく、無関心を装って通り過ぎようとしているように見える。

9月に入っても、偵察機から東京を地域ごと撮影する作業がつづいている。爆撃効果の検証に加え、芝浦のように接収の候補地や、水路を確認するためか隅田川・荒川流域、主要道路がある地域、霞が関などの中枢部などの調査が目的とされたのだろう。

それまで日本人は偶然写りこんでいるという感じだが、やがて意識的に日本人にカメラを向けた写真も出てくる。9月上旬に新橋駅前で撮られた写真は、ムービーカメラを回す米兵を記録するためのものだが、それを興味深げに見つめる日本人も構図に取り込まれている。

9月18日に東京駅のプラットフォームで撮られた1枚では、日本人乗降客が数人のMPの周囲に群がっている。日本人の視線はカメラでなくMPのほうに向いている。階段を下りる人々を手前に配し、中景にホーム上の人々、後景に焼けた東京駅舎の赤レンガ。このあたりになると、単に「調査」「記録」というだけでなく対象に興味を持ってシャッターを押した写真家のまなざしを感ずることができる。そのようなタイプの写真が9月、10月と時を経るごとに増えてくる。

その端的な例は10月8日に銀座で撮られた1枚だろう。焼けた歌舞伎座をバックに、晴海通りの水たまりで子供が4人遊んでいる。そばに米兵がいて、子供たちは米兵に笑いかけている。子供と米兵、子供と撮影者の間に何らか(目線とか身振りとか言葉)のコミュニケーションがなければ、この写真を撮ることはむずかしい。想像するに、何らかの「調査」「記録」の撮影中にこの光景に出会い、心惹かれた写真家が撮影したものだろう。このまなざしは日本人写真家が撮った『東京一九四五年・秋』にそのままつながるものだ。

もっとも、そうしたテイストの写真は例外に属する。焼け跡の露店に群がる群衆と英語の道路標識が特徴的な『東京一九四五年・秋』が、全体として焦土から立ち上がる人々の力という物語を語っているのに対して、『米軍が見た東京1945秋』の面白さはあくまで「調査」「記録」にある。こちらは、見る人の関心や視点によっていろいろな解釈が可能で、その意味で開かれた写真群といえる。

10月になると、都内各所の高射砲陣地、防空壕や防火態勢、偽装建築、爆撃された陸軍立川飛行場や中島飛行機武蔵製作所、朝霞の陸軍予科士官学校など、個別のテーマやキャンプ候補地の調査写真が増えてくる。佐藤洋一はこれらの写真を「消えた風景、消えた場所」としてまとめている。敗戦直後にだけ存在した、ほとんどの読者にとって初めて接する光景。団塊の世代に属する小生にしても、わずかに残っていた防空壕の入口とか防火用水(「防火用水」と刻まれた大きな甕が今もわが家の庭にある)以外は記憶にない。

この国の現代史の結節点となった1945年の視覚的イメージは、年の前半については石川光陽や東方社の写真家による空襲の記録があり、敗戦後、多少の時間が経ってからは『東京一九四五年・秋』をはじめとする写真があった。その前後をつなぎ、8月15日直後の空白を埋めてくれたこの本で初めて知ったこと、分かったことがたくさんある。別の人が見れば、また別の読み方ができるだろう。(山崎幸雄)

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