書籍名 | 命の詩 : 月刊YOUとその時代 |
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著者名 | 阿久 悠 |
出版社 | 講談社(228p) |
発刊日 | 2007.12.21 |
希望小売価格 | 1680円(税込み) |
書評日等 | - |
2007年8月、阿久悠が70歳で他界した。多くのメディアは彼の仕事を振り返り、同時に楽曲がTVなどを通じて数多く流れた。高度成長期の歌謡曲・ポップスをビジネスとして仕掛けていった一人であり、作詞した曲が5,000曲を超えると聞くと好き嫌いは別として時代を創っていったプレーヤーの一人であったということを痛感させられる。久しぶりに耳にした楽曲が阿久悠の作詞だったのかと再認識させられることも多かった。
本書は阿久悠が1976年に創刊し、執筆・編集した「YOU」という、雑誌というにはあまりに薄い、ブローシャーともいうべきA4・8ページの小冊子を抜粋編集したもの。寡聞にしてこの小冊子の存在は知らなかったが、「YOU」は4年間続き、個人誌としては息の長い活動が続けられたようだ。
構成は巻頭随筆、対談、新譜に対するコメント、小説などが掲載されていた。考えてみれば贅沢な、個人誌である。いまなら、自己表現手段としてはブログを使うなどコストもそう掛からないやり方がいろいろあるのだが、1970年代半ばにおいて自らをこうした形で表現しようとすることは大変なエネルギーの掛かることだったと思う。その発刊の意図を「饒舌」という言葉を使って説明している。「今年はもっと饒舌であろうと思う。そして饒舌をすすめたい。このYOUを発刊する気になったのも、そういう意味からである。・・・・・全てに、当事者としての熱さと痛みを感じながら開いた頁に、誠意の饒舌を書き記して行かねばと年頭に思うのである。・・・・・・」
作詞家としての阿久はかなり「饒舌」であった。そうでなければ5000曲を越える詞は作れないし、時代に受け入れられる「言葉」を捜し、そして使うことが才能としての「饒舌」だった。時折、彼の選択する言葉は、初見ではない言葉を再度表に出してくることもあったが、「単語」から「文章」、「文章」から「情景」という展開が新鮮であったため、断片である「単語」にこだわる人も少なかったのかもしれない。こんな、警句的な言い回しが、巻頭随筆の中に見られる。彼は誰に向かってそれを語ろうとしていたのだろうか。それとも、自分自身に戒めとして語りたかったのか。楽曲の歌詞で考えれば、自分の代役としての歌手に語らせたかったのか。歌手と作曲家と作詞家というTEAMにおいて阿久は自分の立ち位置をどのように考え、どんな役割を果たしたかったのか。歌手を介在しての表現の歯がゆさを感じながらも、歌うというパフォーマンスの統合された訴求力やインパクトを最大化させたかったのだろう。そのヒントにもなりそうな文章があった。
1979年5月25日にリリースされた八代亜紀の舟歌に関する彼のコメント。同年6月5日号の「YOU」に載っている。
「10年以上も現役で詞を書きつづけ、・・・大抵の歌手との組み合わせが実現するものだが、縁がなかったと言おうか、八代亜紀との初顔合わせの作品である。・・・・さて、数多くの演歌を書いているように思われているが、実は少ない。・・たまたま「北の宿から」や「津軽海峡・冬景色」が大ヒットしたためにそう思われているのであろう。極端に言えば年一作というところで、今年ははこの「舟歌」がその役割を果たしてくれるのではないかと予感に似たものを感じているのである。男唄である。Gパンをはき、あぐらをかいて歌ってみようかと八代亜紀、本人が語っていたというのを伝えきいたが、もし、それが実現できたらすばらしいと思う。風景が出来上がるからだ。・・」
1979年のレコード大賞は逃したものの、阿久の予感どおり、「舟歌」は八代亜紀の代表作となった。ここに書かれたとおり、新譜のリリース直後に「北の宿から」や「津軽海峡・冬景色」といった大ヒットと同様の手ごたえを感じていたとするとその自信は何なのだろうか。初めて組んだ八代亜紀はデビュー以来ずっと女唄をうたってきた歌手である。その彼女に「男唄」を提供する。新しい挑戦といえば前向きな捉え方であるが、ビジネス的に言えばかなりのギャンブルである。
しかし、彼の詞作りのプロセスは、「女唄」しか歌って来なかった「八代亜紀」が「Gパンをはき」そして「男唄」を歌う。歌い手の姿を含めて、パフォーマンスの全体像としての「風景」を考えていることか。そうした、計算された結果のヒットだとすると作詞家冥利に尽きるのだろうと思う。2007年2月号の百楽に掲載された生前最後のロング・インタビューでもそうした挑戦的な姿勢が見て取れる。1967年のモップスの「朝まで待てない」で実質の作詞家スタートした後の時代を語っている。
「僕はそのころ放送作家として忙しかったので、何がなんでも作詞の仕事にしがみつく必然性はありませんでした。自分の色がはっきり出せるような歌詞がかけなければ作詞家として活動する意味はありませんでした。・・・僕の書く詞は歌謡曲らしくないと言われました。昭和30年代の歌謡曲には、日本人の大好きなメンタリティが定着していました。唄の中の女はか弱く悲しそうで、男に捨てられたり、不幸にじっと耐えたりしていました。・・・僕はシクシク泣いている女を一度も書いたことがありません。「また逢う日まで」や「ジョニーへの伝言」には、男と女が別れるときに、二人でドアを閉める関係であったり、わたしはわたしの道を行くと言い残して立ち去る「女性」が出てきます。それは、女が強くなったとか、男が弱くなったといったことではなく、別れの口火は男女どちらから切ってもおかしくない、ただそれだけのことじゃないかといった気持ちでした。・・・」
たしかに、「ジョニーへの伝言」を聴いたとき、「わたしはわたしの道を行く
友達ならそこのところ上手く伝えて・・」「瀬戸内少年野球団」もこの「YOU」に連載されていたものである。誰に遠慮するでもなく、自身を表現できる場としてかなり完成度の高い個人誌であったのだろう。
本人は「無免許人生」を叫んでいたと思うが、本書の年譜を見て、1999年紫綬褒章を受けていることを知った。少し割り切れない、何故だ、という気持ちを感じつつの新しい発見であった。(正)
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