書籍名 | お殿様の人事異動 |
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著者名 | 安藤優一郎 |
出版社 | 日本経済新聞出版部(240p) |
発刊日 | 2020.02.11 |
希望小売価格 | 935円 |
書評日 | 2020.04.18 |
戦国の時代から豊臣秀吉の天下統一、徳川幕府への権力移行の中で国替と呼ばれる大名の異動(転勤)が数多く行われて来た。それは、戦いの結果としての「論功行賞」が基本的原理だが、徳川幕府も安定期になると、そうした戦いの論理だけではない国替も起こって来た。本書は国替や幕藩体制における昇進などを具体的に検証しながら、国替というその膨大なプロジェクトの実態も明らかにしながら、もはや士族というよりも役人となっていった大名や旗本たちが己の昇進に邁進する日々の活動についても描いている。振り返って見ると、NHKの大河ドラマの多くは戦国から江戸期をテーマとしていることから見ても、この時代が多くのエピソードを生みつつ、近代の歴史観の土台になっていたからこそ、現代においても心惹かれる時代という事だろう。
本書では、色々な観点から国替、昇進といったまさにタイトルにある「お殿様の人事異動」が描かれている。
冒頭は会津藩を中心とした国替の歴史とその実態を代表的なケースとして取り上げている。秀吉の小田原攻め(1590)による北条氏の滅亡とともに、北条氏と同盟関係にあった伊達政宗の減封処分として会津が没収された。その後には、近江日野出身の蒲生氏郷が42万石の大名として転封した。豊臣秀吉によるこの国替えの意図は、北の伊達を牽制するとともに、関東に入封した徳川家康に対しての牽制も狙ったものと言われている。蒲生氏郷はその後、信夫(福島)なども所領として増加して92万石の大名となっていく。
蒲生家としては順調な時代であるのだが、その氏郷も1594年に病死した。嫡男の秀行が後を継いだものの、若年で伊達の抑えにならないと判断され、1598年に上杉景勝が越後から会津に転封し、秀行は12万石に大減封されたうえ宇都宮に入る。しかし、戦国時代という乱世の象徴のように、関ケ原の戦いの結果1600年には上杉は会津から米沢に転封、再び蒲生秀行が会津に戻ると言う目まぐるしさである。
このように、関ケ原の戦いから、徳川幕府開府による国替が全国規模で行われたが、改易によりすべての領地を没収された大名は88家、416万石あり、減封された大名は5家、没収石高208万石と言われている。混乱しなければおかしいといえる大変革であったと思わざるを得ない時代である。
次に、国替や役職昇進に関する原則が説明されている。国替の第一の目的は当初は関ケ原の戦いを始めとする戦いの論功行賞としての国替えであったが、そうした時代のあとは幕府が権力を守るため関東・東海・上方に徳川一族(親藩、譜代)を配置することとなった。第二の目的は懲罰による、改易(取り潰し)や減封のために行われる国替である。幕府の許可なく城の普請工事を行うという武家諸法度違反で減封された例や城主の行状を処分するための転封もあったようで、この点になると幕府によって公平な運用がされていたのかどうかは疑問の余地はありそうである。第三点は四代家綱の時代になると幕府の安定の為に改易や転封を実施することは少なくなり、各大名が幕府の要職に就くことで転封するケースが多くなったと指摘している。その幕府の構造は、老中(4~5名)が3万石以上の譜代から、若年寄(4~5名)が3万石以下の譜代から構成されている。加えて京都所司代(1名)、大坂城代(1名)、寺社奉行(4-5名)、奏者番(20~30名)などで構成されている。まさに狭き門であり、140家といわれる譜代大名としても老中、若年寄に名を連ねるためには将軍、御三家のみならず大奥まで巻き込んだ栄達の根回しが行われたと言う。
具体的な国替のプロセスを三国間の国替のケース(三方領地替)を取り上げて説明している。その詳細を読むにつけても、転封を命じられてから五か月に及ぶ段取りは幕府の権力誇示ともいえる手順であり、藩主や領民にとって難儀な事柄であったことが良く判る。同じ石高の藩と言っても実態としては年貢徴収率が異なっており新旧藩主間のトラブルの元だったというし、藩が御用商人から借りていた御用金の返済トラブルや領民からみて未納年貢米の取り扱いに関する不満から百姓一揆が発生するなどいろいろな問題が取り上げられている。藩士にとっても、住んでいた屋敷は藩から下賜されたもので、いわば社宅。従って、国替えとともに家居、建具、雨戸、畳、竃、井戸、土蔵、物置、梯子、庭木、庭石に至るまで次の藩の藩士に引き継いでいく必要が有る。加えて、新領地への距離によって引っ越しのコストは膨大なものになっていた。藩士の転居費用は藩が負担したものの、家族の引っ越し費用は各自負担というのも家臣からすると大変な費用であったと思われる。
こうした国替の究極の形は、大政奉還によって徳川家に発生する。これは将軍家800万石から一気に駿河府中の一大名70万石に減封された。この結果、徳川家家臣は旗本・御家人で3万人を超えていたが、家臣を抱える限界から5,000人は徳川を離れて新政府に仕え、4,500名は農業・商業に転じ、20,000人は徳川の家臣に残ることを希望した。しかし、徳川に残った人達も4年後の廃藩置県で士族としての職を失っていくことになる。
本書が示している多くの視点の中で、個人的には会津藩に関する国替の歴史的経緯、国替えによる家臣の負担、減封による家臣団の人員圧縮などについて興味深く読んだ。というのも、蒲生氏郷の家臣として近江日野から「内池」が会津に入ったという家譜が残っていることから、どのような経緯で現在の福島に根付いたのかを確認したいという思いもある。本書に有る様に蒲生家は1598年には信夫郡(現福島市)も所領に加えて92万石になった後、12万石に大減封されて宇都宮に移った。再度会津にもどった1621年ごろまでは蒲生家に従い、以降は家臣団を離れて故郷の近江日野に戻って商人として生活を始めた。その後、1750年頃に土地感のあった信夫郡(現福島市)に入り商売を始め、本拠地として現在に至る。何故、蒲生家の家臣団を離れたのか、具体的に何年かは不明だが、伊予松山まで蒲生家とともに士族として命運を共にしたのかもしれなかったと思うと、歴史の偶然に翻弄された先祖達が苦労したであろうと思いを馳せるばかりである。そうした歴史を多少なりとも辿れるというのは幸せなことだ。
まだ私が現役時代、お客様であった滋賀県に本社のある近江兄弟社にご挨拶に伺い名刺を交換した時、先方が名前を見て、「近江のご出身ですか?」と問われたことがあり大変驚いたことが有る。社会人として名刺を出して近江の出身と言われたことは初めてだった。私の知る限り現在の近江日野には内池姓の方は居られない。ただ近江鉄道日野駅の近くに「内池」という交差点があり、今となっては出身地のしるしとして残っている唯一のものかもしれない。そんなことを思い出される、楽しい読書だった。(内池正名)
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