アナーキスト人類学のための断章【デヴィッド・グレーバー】

アナーキスト人類学のための断章


書籍名 アナーキスト人類学のための断章
著者名 デヴィッド・グレーバー
出版社 以文社(200p)
発刊日 2006.11.01
希望小売価格 2,420円
書評日 2021.03.17
アナーキスト人類学のための断章

近ごろ面白いと評判のテレビ番組「100分 de 名著」(NHK Eテレ)で、斎藤幸平(本欄で『大洪水の前に』を取り上げた)を指南役にマルクスの『資本論』をやっていた。マルクスの重要なキーワードを解説する斎藤に、それを自分の守備範囲に翻訳して受ける伊集院光の勘のよさにいつもながら舌を巻く。そのなかで斎藤は労働疎外に関連して、去年翻訳されたデヴィッド・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事』(岩波書店)を紹介していた。

昨年9月に59歳で亡くなったグレーバーは人類学者にして活動家。2011年のウォール街占拠運動で重要な役割を果たし、「私たちは99%だ(We are the 99%)」というスローガンのアイディアを出したと言われる。『ブルシット・ジョブ』も読んでみたいけど、たしか我が書棚にもグレーバーの本があったなあと思って探したら出てきたのが『アナーキスト人類学のための断章(Fragments of an Anarchist Anthropology)』。しばらく前に買って積読状態だった。まずはこちらから読んでみよう。

日本の読者に向けた序文でグレーバーは、自分をアナーキストと規定している。人類学者でアナーキストとはどんな存在なのか。そしてアナーキスト人類学とは? 「断章」とタイトルにあるように、この本はまとまった著作というよりアナーキスト人類学のエッセンスを思いつくままスケッチしたパンフレット(『共産党宣言』のような)。そこから興味を引かれた部分を抜き出してみる。

まずグレーバーは言う。人類学とアナーキズムには親近性がある。なぜなら、「人類学者は現に存在する国家なき社会について何事かを知っている唯一の学者集団」だからだ。彼らは、世界には「自己統治的共同体」と「非市場的経済」が存在することを、そして国家が存在しないときに起こるのが、多くの人々が想定する事態(「人びとは殺し合うだろう」)ではないことをその目で見ている。

そう述べた上でグレーバーは、マダガスカルの小さな町でフィールド調査した経験を語る。その地域では地方政府が機能していなかったり、まったく姿を消したりしていた。でも無政府状態のなかでも人々は、うまくやっていた。「それはどのような制度的な規約や構造もなしに、共同体の合意を形成する作法であった」。住民は誰でも「NO」を言うことができる。誰かが「NO」と言えば、それまでの議論を捨てて「NO」と言った者を納得させる新しい条件を改めて考え出さなければならない。時間はかかっても、それを繰り返すことで、「大多数が少数をその決定に従属させることがない」合意が形成される。ただ、実際に「NO」が発動されることは稀だった。

こういう人類学の知見には、たいてい次のような反論が返ってくる。「それって近代化されてない国や部族の例だろう? 近代社会では通用しないんじゃないか」。それに対してグレーバーは、近代社会と「原始的」「部族的」社会の間に違いはないと説く。近代を生んだ西洋とは何ら特別なものでなく、人類史に根本的な断絶はない。「『原始的』などという状態は存在していないということ、『単純社会』とみなされているものは実際に単純ではないこと、時間から切り離され孤立して存在してきた者などいないこと、ある社会機構がより進んでいたり遅れていたりすることなどないこと」を強調している。

またいささか皮肉っぽく、こんなことも言っている。血縁関係を土台にした前近代社会と、市場や国家という制度の上に成り立つ近代社会とは常に区別されている。でもわれわれの「近代的」世界の社会問題は、たいてい人種と階級とジェンダーを巡って現われる。これって「血縁体系からくる問題」じゃないのかい?

アナーキズムと言えば、すぐに革命とかテロリズムといった言葉が連想される。でも、それも違うんだとグレーバーは言う。アナーキズムが理想とする国家のない社会は、革命のような短期的な大変動によって生まれるのでなく、世界規模での長期にわたる出来事にほかならない。それは必ずしも政府の転覆を目指すのではない。「『古い社会の殻の内側で』新しい社会の諸制度を創造しはじめるというプロジェクト」である。権力の目の前で自律的な共同体を造りだす試みこそ革命的行動と呼べるのだ。それに、と彼は言う。「権力との正面衝突は、ほとんどの場合、虐殺か、あるいは当初それに挑戦しようとした相手権力よりさらに醜い権力形態の形成に帰結してきた」。だからこそ「権力の統制から逃れる戦略」として「国境を越えた移動の自由」(真のグローバリゼーション)と「新たなコミュニティの構築」が求められる。

アナーキズムの基本原則は「自己組織化」「自由連合」「相互扶助」にある。それは、一定の理論体系ではなく、むしろ「ある信仰」、「生きやすい社会を築くためのよりよい社会関係があるという確信」にほかならない。自己犠牲的革命家がさらなる苦痛を生産するだけなのに対して、アナーキズムが強調するのは「快楽」や「祝祭」、「そこでわれわれが自由であるかのように生きることができる『一時的自律圏』の創造」である。

ほかにも、多数決民主主義は決定を少数者に強制する「力」を前提にして共同体を分断させるとか、アナーキズムの理論はマルクス系統のような「高踏理論(ハイ・セオリー)」でなく実践のための「低理論(ロー・セオリー)」だとか、合意形成には大人として振る舞うことが必要とか、面白い議論がたくさんある。

グレーバーが大切にしているのは、未来ではなく今現在ということ。来たるべき未来を先取りして、この瞬間に自由で平等で楽しくあるにはどうしたらいいか。そうでないとしたらその障害になっているのはなにか。その障害に仲間とともに立ち向かうことをアナーキズムと呼ぶ。そうした彼の姿勢の底にあるのは、人間は互いにケアしあう生き物であるという確信と楽観だろう。

アメリカにはグレーバーのような祝祭的アナーキストの系譜が連綿と存在しているようだ。本欄でも紹介した『グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃』の著者、ミュージシャンのデイヴ・ヴァン・ロンクは自由意志主義連盟に加わるアナーキストだった。本書をはじめとするグレーバーの翻訳者、高祖岩三郎の著書『ニューヨーク烈伝』(これも本欄で紹介した)はニューヨークのアナーキストやオートノミスト(自律主義者)などさまざまなラディカルの活動を追っている。

日本では僕の知るかぎり、グレーバーのように祝祭的な空気を漂わせるラディカルな書き手が少ない。アナーキズムの系譜が戦後ぷっつり切れているとか、マルクス系やフランス現代思想系の「高踏理論」の影響が大きいといった理由もあるのかもしれない。専門家でもなく活動家でもないこちとらとしては、でもグレーバーのような雰囲気をもつ物書きの手になるものを読むのは愉しい。この世界は今どこに向かっているのか、それを知る手がかりにもなる。彼の本格的な論考である『負債論─貨幣と暴力の5000年』もいずれ読んでみよう。(山崎幸雄)

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