書籍名 | 映画術 |
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著者名 | 塩田明彦 |
出版社 | イーストプレス(256p) |
発刊日 | 2014.01.16 |
希望小売価格 | 2,484円 |
書評日 | 2014.06.15 |
目次を見るとこんなキーワードが並んでいる。「動線」「顔」「視線と表情」「動き」「古典ハリウッド映画」「音楽」。著者の塩田明彦は『どろろ』『抱きしめたい』などの作品をもつ映画監督で、本書は映画美学校アクターズ・コースで彼がおこなった講義を活字化したものだ。役者志望の学生を前に、現役ばりばりの映画監督が自らの手の内を晒す。この本の面白さはそこに尽きる。
塩田はこの講義のテーマについて、「演技と演出の出会う場所から映画を再考する」と書いている。毎回、数本の映画を取り上げ、気になる部分を上映しながら映像に即して語るスタイル。紙面でも多くの連続カットが印刷され、講義を体感できるようになっている。例えば、最初に語られているのは動線。
「動線とは、要するに『人物をどう動かすか』ということです。監督が映画を作るときに、もっとも根本の作業がこれなんです。……動線の組み方を間違えなければ、俳優は必ず素晴らしい芝居をしてくれる。僕の経験上はっきりそう言えます」
塩田が例として取り上げるのは成瀬巳喜男監督の『乱れる』。兄嫁の高峰秀子と義弟の加山雄三の許されぬ愛の物語だ。夜、高峰と加山が部屋で二人で食事するシーン。何かが起こるわけではない、平凡な日常が描かれている。
「ここでは引き戸や襖を開ける、閉じるという動作が動きの鍵になっています。襖の開閉と共に二人がどういう立ち位置と座り位置に置かれていくのか。『動き』によって二人の距離はいかに近づいていくのか。……二人が距離を詰めるために正しい動線が組まれていると、二人の内面がどうであるかに関わらず、自然とサスペンスが生じるんです」「物語のレベルでは、特に大変なことが起きているわけではないんです。なのにハラハラするのは、別に閉める必要もない襖を、姉が無意識にどんどん閉めていくため、二人が徐々に密閉空間に追い込まれていくからです。ここでの緊張感は、そんな二人の動き、動線によって生まれているんです」
食事をするだけのシーンに、観客はどうしてハラハラするのか。その理由が動線という視点から分析されている。動線は、演出家にとって撮影現場で役者をどう動かし、それをどこから撮影するかという技術的な問題であると同時に、心理描写や会話ではなく行動によってあるエモーションを醸しだす役割を負っている。
もうひとつ塩田は、この映画の「動線の反復」を語っている。冒頭、高峰が奥の台所から「渡り板」を渡って店先に出て警察の電話を受け不安な顔を見せる。ラスト、宿を飛び出した高峰が橋を渡り川端を走り、放心した顔で死んだ義弟を見送る。この二つのシーンで高峰は奥の空間から橋を渡って別の空間へ移動し、不安あるいは絶望的な表情をするという、同じ動線が繰り返されていると塩田は言う。冒頭のかすかな不安が、加山の死というかたちで決着する。成瀬監督は「ほとんど同じ動線で……予感の場面と結果の場面の動きを反復させることで描いている」。
「映画が本当に面白いのは、……上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もうひとつの物語がスタイルとして語られているからです。……二人が、ひとつ屋根の下でどういうふうに距離を詰めていくのか、どういうふうに橋を渡るのか/渡らないのか──語られている物語に対して複数の次元を作り出していく、それが映画における演出というものです」
役者の演技もそれに対応して、いくつものエモーションを内に秘めていなければいけない。「こう思ってる、だからこう動いた、という因果に陥っている『動き』は、すべからく説明にしかならない。『怒った』から『殴った』ではなく、『いきなり走り出した』、なんで? 『あ、怒ってる!』という予想を超えた瞬間が世の中にはある。そこには常に複数のエモーションがあって、何が出てくるかわからない潜在層が重なっていることで、人がただそこにいるだけでも緊張感が生まれる」
塩田がここで語っているのは「何を感じたか」ではなく、「ひたすら『何をしたか』の積み重ねだけで構成されている」古典ハリウッド映画の演出と演技の豊かさを再考してみることだろう。
古典ハリウッド映画の話法は「省略と行動」と要約できる。昔のハリウッド映画は上映時間が90分という制約があった。だから内面描写や心理描写を省略し、ひたすら「何をしたか」の行動を追うことで物語を前へ前へところがしていった。もっとも、省略といっても省略されたものがなくなったわけではなく「伏せられた」のであり、「伏せられた」ことでかえって存在感を強め人物や物語に影響を与える。それは小説の世界でパルプ・マガジンという大衆誌を舞台に、内面描写抜きに行動だけを描くなかからハードボイルド小説が誕生したこととも対応しているし、相互に影響しあってもいるだろう。
その後、映画の上映時間はどんどん長くなり、その分、内面描写や心理描写に時間をかけるようになった。それに対応して、役者の実体験や内面描写を重視するアクターズ・スタジオ出身のマーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロといった役者が登場してきた。彼らの「複雑で内面的」な演技に対して古典ハリウッド映画の「シンプルで外面的」な演技がだめかといえば、そんなことはない。「そういうシンプルで外面的な演技というものが、人間の内面の複雑さとか、人間と人間の結びつきの複雑さ、不可解さのようなものまで見事に描き出していたんです」。そうした「シンプルで外面的な演技」はハリウッドだけでなく、小津安二郎映画に登場する人物の無表情などにも共通する。
そういえば先日、朝日新聞に小津安二郎について岩下志麻が語った記事が載っていた(5月25日)。『秋刀魚の味』での、岩下志麻の失恋場面。失恋した岩下が自分の部屋で巻尺を指に巻く動作を100回以上繰り返したがOKが出ない。この時の監督の指示は「無表情に」だった。彼女はこう回想している。「きっと悲しい顔をつくろうとしていたんでしょうね」。撮影後、小津に「人間というのは悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものじゃない」と言われたそうだ。
脚本家の仕事は言葉によって物語を組み立てることだけれど、映画監督の仕事は(自分で脚本を書いたにしても)その物語に対応した映像を撮ることではない。演出も役者も、必ずしも物語と一対一(悲しさには悲しさ)で対応する必要はない。むしろ演出と役者の動き、つまり動線によって、あるいは顔(という物体)によって、視線や表情によって、アクションによって、物語を語りながら観客の無意識に食い入るもうひとつの何ものかを重ね合わせる。観客はそれに触れたとき、それが何かを意識していなくとも面白いと感じ心を動かされる。
塩田は、そのことをさまざまな例を挙げながら語っている。『サイコ』でアルフレッド・ヒッチコックがアンソニー・パーキンスの顔を「鳥」に見立て「物体」としての顔を露わにしてみせたショット。『座頭市物語』で三隅研次が、座頭市と平手造酒が並んで釣りをしながら浮きのかすかな動きだけですさまじい殺気を満ちさせたショット。『許されざる者』でクリント・イーストウッドが、視線と表情、短いセリフだけでモーガン・フリーマンとの友情を復活させ一緒に旅立つショット。
ほかに塩田が取り上げている映画監督は溝口健二、ジョセフ・ロージー、ロベール・ブレッソン、増村保造、ジョニー・トー、フリッツ・ラング、加藤泰、ジョン・カサヴェテス、神代辰巳……。うーん、彼らの映画をもう一度見たくなってきたぞ。(雄)
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