いとしいたべもの【森下典子著】

いとしいたべもの


書籍名 いとしいたべもの
著者名 森下典子
出版社 世界文化社(174p)
発刊日 2006.4
希望小売価格 1470円(税込み)
書評日等 -

外食が当たり前になったことでレストラン・ガイドが氾濫し、物と情報の伝達構造の変化でお取り寄せは誰もが出来るようになり、生活にゆとりが生まれ、料理は楽しみに変わった。

そうした昨今、店の宣伝かと勘違いしそうな「食べ物」本が多い中で本書は心象風景的な食べ物に関する想いを素直な文章で表現し、力みのない快作である。

某社のホームページに連載していたものを加筆したとのこと。添えられている挿絵も著者森下自身が描いている。「食べ物自体」と「その時のシチュエーション」を綴っているのだが、評者より一世代若い著者の食についての感覚に当然とはいえ差があるのも面白い。加えて、文章が読みやすく、上手い書き手であると思った。

それは、同じ「食べ物」系の小泉文夫の文章が話し言葉を文章化するという「狙い」なのか、はたまた「手抜き」か判然としない悪文に辟易としてしまうのとは違った「品」と「流れ」を持った文章である。扱われている題材は「オムライス」「くさや」「サッポロ一番みそラーメン」「カステラ」「ブルドックソース」「カレー」「舟和の芋ようかん」「茄子」「おこわ」「七歳の得意料理」等々。誰でもが、何かしらの思い出を刺激されるテーマが並んでいる。

「七歳の得意料理」は、じつは料理が苦手という森下の最初の料理の思い出をつづっているのだが、七歳の女の子の感情推移とはこうしたものなのかという表現が巧みである。

「・・七つか八つの頃だ。・・家に帰ると台所で母の声がした「おかえり。今、ポテトサラダつくっているからお手伝いしてちょうだい」・・わたしは「ポテトサラダ」とは何だろうと思いながらも、「お手伝い」を頼まれ大人から一人前に扱われ、頼りにされているんだと、風をいっぱいはらんだ帆のように張り切った。・・・母は、それでポテトサラダ・サンドイッチをつくろうといった。食パンのバターは私が塗った。・・・母は何度も何度も「美味しいね、大成功だわ」と笑った。私は、母から感謝された気がした。

・・・その日の午後叔母が訪ねてきた。・・その叔母に、同じ手順でポテトサンドを作ってあげると「あーっ、おいしかった。典ちゃん、ごちそーさま」と心の底から絞り出すように言った。私の作ったものを大人が食べた。「美味しい」と喜んだ。自分は大人の役に立つ・・・・。うれしく、誇らしく、少し背が伸びたような気がした。

・・・それから母が台所にいると「お手伝いする」と言うようになった。ところが、忙しそうな時ほど「あっちへいってなさい」と私を追い払った。・・・ある日、ハッと気がついた。本当は母は私を頼りなどしていない。あれは、子供に出来る簡単な仕事をやらせて、遊び相手をしてくれていたのだ。私は落胆した。

・・・・・やがて、台所でなにかしようとすると「宿題はやったの?」と問いただす声がかかるようになった。・・・結局大学受験が終わるまで、私はほとんど台所に立つことはなかった。・・気がつくと私は料理が苦手な大人になっていた。

・・・先日、六十歳をすぎた叔母が遊びに来た。「むかし、典ちゃんが作ってくれたポテトサラダのサンドイッチを、今でも思い出すのよ。小さな指の跡がいっぱい付いてて、分厚いところと、薄いところがまちまちにあってね・・・」。その時、胸の奥で忘れ去っていた何かがキラリと光った気がした。自分が作ったものを、「おいしい」と喜んでもらえた七歳の誇りと歓びが、まだ、どこかに残っている。久しぶりに、ポテトサラダ・サンドイッチを作ったら、あの気持ちを取り戻せるだろうか・・・」

「オムライス世代」では、昭和30年代の家庭における母親の存在感の大きさを上手く表現している。当時の母親は日々、家族が生きるための食事を考え、作るという絶大な責任を負っていた状況が良くわかる。

「具は玉ねぎと人参のみじん切り。それにハムか鶏肉、あるいはソーセージを細かく切ったものが入っていた。母はそれらをフライパンで、ジャーッ!と炒め、その中に四角いご飯の塊をゴトンッ! と放り込んだ。ご飯は冷蔵庫の中で冷え固まったもので、前の晩のも三日前のも一緒くたに入れた。「電子レンジ」がなかったのだ・・・・・あの頃は日本全国どの家庭でも、冷やご飯は、蒸し器で温めなおすか、炒めご飯にするしかなかった。・・・母は、四角い冷やご飯の塊を、木のしゃもじでガツン、ガツンと突き崩した。これにはけっこう手間が掛かる。塊が少しずつほぐれ、ご飯粒がパラパラとして、全体に炒まったら、塩、コショウで味付けし、カゴメケチャップを入れる。・・・・」

なかなか美味そうな文章であるし、奮闘する母親の姿が思い浮かぶ。当然ながら、ケチャップはカゴメ。確かに冷や飯の処理に関して言うと、昭和30年代には炒めご飯は我が家でもかなり登場していたと思うし、夏場でなければオジヤもかなりの存在感だったように思う。ただ、オムライスの出番はあまりなかった。「腹減った」以外の言葉を発しない、食べ盛りの兄弟二人を相手にしていてはオムライスのような手のかかる料理を作っている暇は無かったということだろう。

長じるに、学生時代仲間といろいろなところに貧乏旅行をしたが、そのときはオムライスをかなり食べた、私なりの考えでは「どんな辺鄙なところの食堂でも味に差のない食べ物」という理由だった。なにしろ、ご飯と卵とカゴメケチャプだけで作られているから、変わりようがないという持論である。

「わが人生のサッポロ一番みそラーメン」とあるように、彼女の時代ではインスタント・ラーメンが当たり前になっており、その時代にさっそうと出現したサッポロ一番のインパクトが強烈だったようだ。一家で「サッポロ一番を美味しいと食べる」その描写は当時の東京における家族の原風景だったのかもしれない。

評者のインスタント・ラーメンとの遭遇体験は、昭和38年に無から出現した「日清チキンラーメン」である。それまでは、そば屋のラーメン(支那そば)しか食べたことはなく、確か当時40円だった。それが黄色と茶色のパッケージで35円で売り出され、醤油味の味付け麺が油で揚げてあり、その四角い麺の塊をドンブリに入れ、沸騰したお湯を注ぎ3分。刻み葱とハウス・コショーをぶち込んで「うはうは」言いながら食べていた。

そして今なお「サッポロ一番」「チキンラーメン」は依然としてスーパーマーケットで販売されているのを見る。製法は変化・進化していると思うのだが、依然として過去のブランドで商売ができるところがすごい。家人に反対されながら、久しぶりに「チキンラーメン」を買ってみた。それは確かに、家人と出会う遥か昔の「チキンラーメン」と「チキンラーメンの時代」の味がした。(正)

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