歩く江戸の旅人たち【谷釜尋徳】

歩く江戸の旅人たち


書籍名 歩く江戸の旅人たち
著者名 谷釜尋徳
出版社 晃洋書房(206p)
発刊日 2020.03.30
希望小売価格 2,090円
書評日 2023.03.15
歩く江戸の旅人たち

著者の谷釜は体育科学やスポーツ史が専門分野で、本書は「旅=歩行」という視点から歴史上の人物の移動能力を分析するとともに、具体的なルート(旅程)や天候などを文献から読み解くことで、近世日本で歴史に名を残している人達がどのように旅をしたのかを具体的に描き出している。日記や覚書などで旅の記録を残している松尾芭蕉、伊能忠敬、吉田松陰、勝海舟の父親の勝小吉などを取り上げており、人物像を掘り起こすだけでなく当時の社会インフラについても明らかにしている。

そもそも、日本人にとって「歩行」とは何だったのか。近世日本では貝原益軒などが「同じ場所に長く座らずに、毎日少しでも身体を動かすこと」などと「歩行」の養生的意義は語られているのだが、江戸の実社会では健康目的で歩くという習慣は少なかったようで、近世の庶民の歩行の旅は「養生」のためではなく「移動手段」に他ならないということだ。著者が近世日本の庶民の道中記40編を分析した結果、旅人の一日の平均歩行距離は35kmという数字が示されている。旧五街道を歩いてきた私の感覚でいうと、江戸期の人達が草鞋などで歩いていたのにこれだけの距離を歩けるというのは、旅行をする人達は健康だったということなのだろう。

近世の旅の基本は日の出の明け六つから歩き始め、日の入りの暮れ六つまでに目的地に着くというもの。夏冬の差はあるが平均12時間くらいと思われる。また、本書では嘉永3年(1850)に出版された「改正増補大日本国順路明細記大成」に記載されている宿間距離に従って距離を計算している。現在も旧街道を歩こうとすると、旧道が残っているところもあるが、道路の改修や川の渡し場の廃止による道の変化、峠越えの道などの整備などから、我々は近世と全く同じ道を歩くことができない場所も多い。当時の実距離を推定するのも今となってはなかなか難しいことなのだ。また、私は知らなかったのだが、「早見道中記」(文化2年・1805)や「旅行用心集」(文化7年・1810)といった旅人が持って歩けるハンディタイプの本が出版されていて、宿場間の距離、人馬の賃金、神社仏閣、名所・名物などが記載されており、まさに「地球の歩き方」の江戸版「日本の歩き方」である。旅ビジネスが庶民の娯楽として成り立っていた証左でもある。

「おくのほそ道」の旅は、芭蕉46才の元禄2年(1689)3月27日に江戸を出立し、8月21日に大垣に到着している。ただ、「おくのほそ道」は文学作品であり旅程の正確な日時とルートが明確に記載されている訳ではない。芭蕉の歩行を科学的・計量的に考えて行くには精度に欠けるということで、同行した弟子の曽良が淡々と書き綴った備忘録的な「曽良日記」から歩行実績を分析し、二人の行動内容を客観的に確認している。この旅の日数は140日。途中76日程各地に逗留しているので、移動日は半分以下の64日という旅だ。ここから移動日の歩行距離の平均は35km、最大距離は一日50kmを超えているという。天候の悪さに影響されずに移動距離を確保していたという健脚ぶりを示している。この数字を眺めていると、逗留日数の多さもいささか驚くが、それも土地の豪商や豪農の旦那衆と俳句の会を開き贅沢三昧の逗留をして、前後の移動も馬を出してもらったりしていたのではないかと勘ぐってしまうのだが。

伊能忠敬は50才で隠居して長男に家督を譲り、寛政7年(1795)に江戸に移り住み、本格的に天文学、暦学を学んでいる。江戸から蝦夷地までの長距離を測量して正確な地形の把握といった学術的な観点からだけではなく、当時北方には時折ロシア船が侵入していたことから、海防のためにも精度の高い地図の必要性は高まっていた時代だ。幕府からの金銭的支援(20両)を得て測量が行われている。この旅の総経費は100両と言われているので80%は自腹ということを聞くと幕府の本気度にいささか疑問が残るのは私だけではないだろう。この第一次測量だけが歩測によるもので、それ以降の測量には方位板など機器が使われ始めている。伊能忠敬は歩行記録だけでなく、毎日の気候、宿泊地、訪問地点などが詳細に記録されている。この江戸から蝦夷地の往復は寛政12年(1800)の4月19日から10月21日まで行われ、往復共に同一ルートを歩いていることも、本書で取り上げている他の「旅行」とは大きく違うところである。180日の内、逗留日を除くと110日だったので、3117kmの総距離からすると実質歩行は一日平均29kmである。著者は着物の丈から伊能の身長を推測し、現在のウオーキングの歩幅の目安「身長X0.45」という前提から伊能の歩幅を69cmと推定している。この旅は歩測であることから歩幅が唯一の尺度であり、それを一定に保つ歩行が要求される。そのための負荷が多かったことは想像に難くないが、かなりのスピードで歩いていることに驚かされる。旅装は、公的な旅であったこともあり、羽織を纏い、脇差を帯刀していた様だが羅針盤などに影響を与えない様に本物の刀を避けて竹光だったというから、体裁は整えつつも科学的な対応もまたしっかり考えていたことが判る。こうしてみると伊能忠敬の旅はまさに「仕事」だと再認識させられる。

吉田松陰は嘉永3年(1850)、20才のときに長州藩に許されて、北は青森から南は長崎まで5年の間に旅をしている。本書では、嘉永4年(1851)12月14日から翌4月5日の140日間で江戸、水戸、白河、会津から日本海側に入り新潟、秋田、青森から盛岡、仙台、日光と廻って江戸に戻った旅である。移動距離は徒歩で2125km、河船(185km)、海船(319km)と推定されている。12月15日の赤穂義士志に合わせて江戸を出発したいという気持ちが強く、通行手形が藩から発行される前に出立するという暴挙にでている。この「脱藩・亡命」の罪を背負ってまでの旅の意図は私にはなかなか理解出来ないところである。140日間の77日は歩行に費やし、一日平均28km、最長は52kmというペースで歩いているが、季節的に積雪もあったであろう旅でも一日毎の歩行ペースに大きなブレは無いというところも特徴的である。松陰が宿泊した旅籠の記録では「松陰は食事も普通にて、別に好みもこれ無く、ただ器械的に箸より口へ移すまでにてこれ有り」との事だから、旅の中ではまさに土地の産物を食べ、異文化を堪能していたという事なのだろう。これもまた、旅を続けられる力の一つと言える。

本書で紹介された人々の旅の歩行について読んでみると、総じて健脚、天候や地形によってあまり変化しない歩行に気付かされる。ただ、この時代の旅を支えるインフラやこの時代ならではの困難の特徴を挙げると、最大の困難は地形より関所だったが「宿の案内に従い、関所の下なる忍び道を出ずる。暗くしてまことに安らかならぬ細道なり」とあるように宿屋による関所抜けの手引きもビジネスとして常態化していたことも明らかである。中山道木曽の脇往還や東海道新居の女街道といわれたように関所の迂回路は各地にあった。こう考えると、幕府による人の移動管理は形骸化していたことも良く判る。一方、時代と共に荷役業者や為替業などが定着し整備されていくことで旅の需要拡大に対する社会システム全体が成立し、近代化に向けて変化して行く江戸の姿が見て取れるのも重要な点だと思う。

私の五街道の旅は、一人旅で、初めての土地を歩くことに楽しみを感じていたことを考えると、本書で取り上げられている旅では吉田松陰の異文化を求めて歩いている姿に近い様に思えてきた読書だった。(内池正名)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索