書籍名 | 石を放つとき |
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著者名 | ローレンス・ブロック |
出版社 | 二見書房(504p) |
発刊日 | 2020.11.26 |
希望小売価格 | 2,750円 |
書評日 | 2021.02.17 |
20代から30代にかけて、ハードボイルド小説にはまったことがある。1970年代、映画で『ロング・グッドバイ』とか『チャイナタウン』とか新しいタイプのハードボイルドが公開されて、そこからハンフリー・ボガートなんかの古典を見るようになった。その流れで、当然のことながら映画から小説へと関心が広がってゆく。ハメットやチャンドラーを読みながら、同時にネオ・ハードボイルドと呼ばれた1970~80年代の新しいハードボイルドにも惹かれた。
ハメット、チャンドラーのタフなヒーロー像に比べると、ネオ・ハードボイルドの主人公はヴェトナム戦争のトラウマを抱えていたり、ヘビー・スモーカーで肺がんの恐怖におののいたり、心に傷を負った主人公が多かった。そんなネオ・ハードボイルドの探偵たちのなかで、いちばん共感でき、その後何十年にもわたってつきあうことになったのがローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ。元刑事でアルコール依存の無免許探偵だ。
ニューヨークの安ホテルをねぐらに、夜な夜ななじみのバーで酒を飲みながらツテを頼りの怪しげな依頼に応える。ジャズと映画が好きで、何作かの例外を除いて暴力に訴えることもしない。ネオ・ハードボイルドの一方の人気者、マッチョで美食家の探偵スペンサーに比べると、どちらかというと地味で、ぱっとしない。誰もが認めるスカダーものの最高作『八百万の死にざま』は映画化されたけど、こちらも華の少ないジェフ・ブリッジス(好きな役者だけど)がスカダーを演じていた。
このシリーズで何より魅力的なのはスカダーが歩き回るマンハッタンの街の描写と、そこで対面する相手との会話の妙。もっともストーリー的には大した謎も複雑なプロットもなく、ミステリーとして見れば物足りない。というよりニューヨークを舞台にした、例えばアーウィン・ショーみたいな都会小説のミステリー版と考えるほうがいいのかもしれない。
このスカダー・シリーズ、2006年の『すべては死にゆく』までは途切れずに新作が出たのだが、それ以後はぐっと時間があくようになった。2015年に『償いの報酬』、それから5年ぶりに出たのが本書『石を放つとき(原題:A Time to Scatter Stones)』。表題作は160ページほどの中編で、ほかにアメリカで『夜と音楽と』のタイトルで刊行された11篇のスカダーもの短篇が収められている。
ハメットやチャンドラーの探偵はいつまでもタフで歳をとらないけれど、ネオ・ハードボイルドの探偵は作者とともに歳をとり、環境も変わってゆく。スカダーもアルコール依存を克服し、元高級娼婦のエレインと暮らすようになり、パソコン探索が得意な若いアフリカ系ストリート・キッズの助手もできた。そんなふうに、なにがしか作者の生活感覚が投影されているのがネオ・ハードボイルドの魅力でもある。
『石を放つとき』のマット・スカダーは、すっかり年老いている。『すべては死にゆく』でも老いは忍び寄っていたが、今回の小説でのスカダーは数ブロックも歩けば膝に痛みが出る、まぎれもない老人だ。足で歩き人と会うことが武器である探偵稼業など務まりそうもない。そんな年老いた男が、なんとか事件を解決するのが本作。
スカダーのパートナーのエレインは、売春婦をしていたことのある女性の集まり「タルト」に参加している。そこで知り合った若いエレンが、かつての客にストーカーのようにつきまとわれているとスカダーに相談するところから話が動き出す。
……と、ストーリーを追っても仕方がない。小生この久しぶりのスカダーものを、昔読んだやり方で読んでみた。というのは、舞台になった都市(この場合はニューヨーク)の地図を手元に用意して、街路の名前や公園、建物など固有名詞が出てきたらひとつひとつ確認していくこと。最初は小説を読むリズムが寸断されて面倒なのだが、やがて主人公はいまこの街路を左に曲がったんだな、とか映像が脳内に立ちあがってくる。昔スカダーものを読んだとき、ニューヨークには旅行者として短期間行っただけの経験で映像も断片的だったけど、その後一年間暮らすことになったので、たいていの場所はおよそ見当がつく。しかもスカダーが歩き回るのは主にマンハッタンのミッドタウンとダウンタウンで、そこは小生がよく行っていた場所でもあり、どんぴしゃりで風景が分かるシーンもある。
スカダーとエレインが住むアパートメントは西57丁目の9番街と10番街の間。セントラルパークの南西角にあるコロンバス・サークルから更に南西へ400メートルほど行ったところにある。繁華街に近いけど閑静な一帯。
ストーカー男をつきとめるため行動を開始したスカダーは、まず地下鉄でダウンタウンへ行く。ローワー・イーストサイドの警察装備品店で警棒を買おうとするが、市警の身分証を持たないスカダーは芝居の小道具を求める客に間違えられ、バルサ材の警棒を勧められて失敗。「銃の展示即売会に行けば、AR15を持ち帰り、何十人もの小学生を手当たり次第に撃ち殺すこともできる。……しかし、ニューヨークに住んでいるかぎり、ニューヨーク市警の身分証明書を見せることができなければ、木の棒を手に入れることは許されない」
仕方なくバワリーに向かったスカダーは、キッチン用品卸売店で代用品として肉たたき棒を買う。「その界隈は昔は簡易宿泊所と酒場ばかりだった」とスカダーはかつての悪臭と騒音を回想するが、その後ジェントリフィケーションと呼ばれる再開発で高級化し、小生が滞在したころにはバワリーはシックなホテルや新しい美術館ができてお洒落なスポットに変わりつつあった。次にスカダーはブロードウェイ18丁目に向かい、スポーツ用品店でバックパックを買う。腹が減ったのでダイナーを探すが「現在、絶滅危惧種になりつつある」ので見つからず、仕方なくタイ料理店でパッタイを食べる……と、そんな具合。
本筋とはあまり関係ないこういうところが楽しいのだ、スカダーものは。そして肝心の本筋は、大した謎も二転三転する展開もなく、あっさり解決してしまう。最後にスカダーとエレイン、エレンの長い会話があり(おまけのようなオチもあり)、このシリーズのもうひとつの楽しみ、ユーモアあふれる心地よい会話を読む者に堪能させて終わる。ローレンス・ブロックのミステリーは、ハードボイルドというジャンル・フィクションの決めごとをきちんと守りつつ、同時にいつもその枠を少しはみだして風俗小説(無論いい意味での)としての魅力をそなえているのがいい。
蛇足。ハードボイルドを読むといつも思い出す言葉がある。斎藤美奈子さんの、「ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだ」というもの。男にとってはなかなか痛い真を穿っていて、うまいこと言うなあ、と感心してしまった。以来、この手の小説は小生のなかでギルティ・プレジャー、なにがしか後ろめたさを伴った愉しみと化している。(山崎幸雄)
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