アッシリア 人類最古の帝国【山田重郎】

アッシリア 人類最古の帝国


書籍名 アッシリア 人類最古の帝国
著者名 山田重郎
出版社 ちくま新書(352p)
発刊日 2024.06.10
希望小売価格 1,210円
書評日 2024.09.17
アッシリア 人類最古の帝国

アッシリアといっても、古代メソポタミアに栄えたこの国の名を、どれだけの人が知っているだろうか。たいていは、聞いたことはあるけど、程度のあいまいな知識じゃないだろうか。筆者にしても高校の世界史教科書で数行、名前くらいは習ったけど、という程度。あるいはキリスト教に親しみ旧約聖書を読んだことのある人なら、アッシリアは北イスラエル王国を滅ぼし、ユダ王国の首都エルサレムを包囲した軍事大国の「悪役」として記憶しているかもしれない。著者の山田重郎はエルサレム・へブル大学でアッシリア学を学んだ研究者。この本を執筆した動機を、アッシリアについて日本語で書かれた本がほとんどないから、と記している。

そういう意図で書かれた本なので、紀元前2500年ごろから前600年前後まで約1500年つづいたこの古代帝国を、著者は通史というスタイルで都市国家、領域国家、帝国期の三つの時期に分けて書いている。そこで学生気分でレポートでも書くつもりで、読んで興味あるところをメモしてみる。

まず驚くのは、アッシリアについては遺跡だけでなく、膨大な文献資料が残っていること。19世紀以来、古代西アジアの遺跡発掘とともに粘土板に書かれた楔形文字文書が大量に発見され(約50万点)、これは古代ギリシアやローマ帝国の文献資料よりずっと多い。紙とちがって粘土板は焼かれてもいっそう固くなるし、破壊された破片も復元できる。その数は発掘調査がつづく現在も増えているから、今後もアッシリアなど古代オリエントの歴史は大きく書き換えらえる可能性がある。

アッシリアはまず前2000年前後、ティグリス川中流域(現在のイラク中部)の都市国家アッシュルとして生まれた。少数の有力な商人たちが主導する商業都市だった。粘土板文書から分かったことだが、アッシュル商人は800キロ離れたアナトリア(現在のトルコ中部)に商館を持ち、貿易に従事していた。アッシュルからアナトリアへは錫(青銅の材料)と毛織物を、アナトリアからアッシュルへは金銀が運ばれた。ロバの隊商を組んでの輸送には運送に当たる商人を雇い、「輸送契約書」「買い付け覚書」「決算書」の粘土板が出土している。アッシュルとアナトリア当局に関税も払った。現代の投資信託に似た共同投資も盛んだったという。この時代、アッシュルを治めていたのは、神の代理である「執政官」で、まだ「王」を名乗っていない。

古代西アジア世界は独裁的な王国同士の争いというイメージが強いが「どこにあっても絶対君主が統治していたわけではなく、現在の民主主義と比較できるような共和制的な体制が各地の都市行政に見いだされる」と著者は書く。

都市国家アッシュルが、北メソポタミアの複数の都市を支配する領域国家アッシリアに広がったのは前1300年前後。初めて「王」を名乗ったアッシュル・ウバリト1世の治世だった。アッシリアの南、ティグリス川とユーフラテス川の合流点付近には古くからの大国バビロニアがある。以後、アッシリアとバビロニアはライバルとして鋭く対立したり、王家同士が姻戚関係を結んだり、一方が他方を支配したりの関係がつづくことになる。

アッシリアは北シリアなど西方に遠征軍を送ってヒッタイトと戦い、何度も遠征した末にバビロニア王国を打ち破って王を捕虜にし、メソポタミア全域とその周辺を固有領土として支配することになった。征服した地域には年貢と税を課し、多数の財宝と人質を持ち帰った。

もちろんアッシリアは都市国家から帝国へと一直線に強大化したわけではない。周辺の国家との闘争に明け暮れ、絶えず異民族の侵入に晒され、王の暗殺や王朝の交代もあったから、衰退期や記録の残っていない時期もある。が、前1000年あたりから著者が帝国期と呼ぶ時代に入ってゆく。

アッシリアが最も大きな版図を持ったのは前750年前後のティグレト・ピレセル3世の時代。王は周辺への征服と併合を繰り返し、バビロニア王も兼ね、地中海からペルシャ湾までを領土とし、周辺の東南アナトリア、フェニキア海岸、イスラエル、ユダ地域、エジプト、ペルシャに接したエラムなどが朝貢国となった。

これらの地域は多くの行政州に分けられ、州のトップには王に忠実な宦官を据えて有力者の台頭を抑えた。従来、征服した土地の住民をアッシリアに移動させ軍隊や土地開発、建設事業に充てる捕囚政策が取られてきたが、この時代はさらにそれを大規模に被征服地の住民を大量に各地に植民し、別の民族を空いた土地に移住させる「強制移住政策」を実施した。

この政策の目的は、住民の故郷との絆を絶ち、さまざまな地域の多くの民族を混在させることで反乱の可能性を低くするとともに、多数の戦利品と貢納によってアッシリア中心部の土地開拓や土木工事、産業開発、軍事力増強を図ることにあった、と著者は分析する。

こうした政策によって移動した人口は150万人と推定される(脇道にそれるが、旧約聖書の「バビロン捕囚」と呼ばれるものも、アッシリアでなくバビロニアによってだが、滅ぼされたユダ王国の民がバビロンに強制移住させられた歴史を指している)。

「ティグレト・ピレセル3世の治世中に倍増したアッシリアの固有領土には、多種多様な言語・民族グループが、本来のコミュニティを解体され他のコミュニティと複雑に混じり、各行政州のなかで新たな住民構成でもって同居する複雑な政治的統一体が生まれた。そして、その統一体は今や絶対的な権力を握る一人の王と少数の腹心の手で統治され、併合された諸国の人材や富は王国中心部に集積されてその繁栄を支えるという構造をもった大国家が成立した。この国家の周辺に作られた影響圏には、アッシリア王の政治的決定に同調し、定期的に貢納する多くの従属国が付属していた。これが、『帝国』とされる政治的統一体の構造である」

もっとも著者は、帝国化したアッシリアの軍事的側面だけでなく高度な文化についても強調している。例えば「アッシュルバニパルの図書館」と呼ばれるもの。ティグレト・ピレセル3世から5代後の王アッシュルバニパルが集大成したメソポタミアの文書蒐集はアッカド語やシュメール語、アラム語で書かれた粘土板2万5000点に及ぶ。内容は卜占、呪術、儀礼などの宗教関係、ほかに医学、叙事詩、神話、歴史書、語彙表、辞書、数学文書など多岐にわたる。シュメールの『ギルガメシュ叙事詩』もここで発見されている。

また王宮の内壁などに描かれた多くのレリーフ(浮彫り)は、軍事、建設事業、儀礼などについての貴重な図像。美術としての評価も高く、エラム王国と戦った「ティル・トゥーパの戦い」や、アッシリア美術の最高傑作といわれる「アッシュルバニパルのライオン狩り」は有名で、(帝国主義時代の結果として)現在は大英博物館に展示されている。

しかし隆盛を誇ったアッシリア帝国は前600年前後にあっけなく滅亡してしまう。バビロニアやメディア王国が反乱を起こしアッシュルと、もう一つの王都ニネヴェが陥落して王統は途絶えた。この時期の史料は多くないというが、滅亡の原因について、著者はいくつかの要因を挙げている。ひとつは、帝国末期に王位継承について王の暗殺、戦死が相次ぎ王宮の政治と行政が混乱したこと。帝国拡大期には征服で獲得した財宝や被征服民の移住で国を維持できたが、いったん拡大が止まると巨大な帝国が廻らなくなったこと。前600年前後の1世紀は降雨が少なく、旱魃がつづいて食料難に陥った可能性もあるという。

帝国はあっけなく滅びたが、人びとはどうなったのか。アッシリア中心地域は荒廃のまま放置されたが、アッシリア人は各地で生き延びた。バビロニアやメディアには、アッシリア人のコミュニティがあった。ペルシアや北メソポタミアにもアッシリアの神を信仰する末裔がいたことが明らかになっている。現在の「シリア」は、アッシリア帝国の西方領域を指す語だという説もある。

彼らは長らく「アラム人」あるいは「シリア人」と自称してきたが、19世紀以来の民族主義の潮流のなかで、自らを「アッシリア人」と呼ぶようになった。その多くはアラム語を母語とし、キリスト教シリア教会に属している。現在はイラク北部、トルコ南東部、イラン北西部、シリア北東部のほか、ヨーロッパや北米各地に離散した人々もいる。サンフランシスコには、カリフォルニアのアッシリア・コミュニティの手で建てられたアッシュルバニパル王の像がある。アッシュル、イシュタル、サルゴンといった名前がアッシリア系のものだそうだ。

日本でいえば縄文から弥生時代にあたる古代のことと思って読んできたら、最後に現代のアッシリア人にまで話が及んで、広大な時空の旅をした気分。最後にまったく個人的なことを。小生、5年前に悪性リンパ腫にかかり抗がん剤治療で寛解したが、抗がん剤の影響で両足の膝から下が常時痺れている。だから海外の旅や、国内でも移動の多い旅は行きにくくなった。以来、本を読んだり映画やテレビを見たりするときの選択で、ふと気づくと、もはや行けなくなった場所のものに手が伸びている。アッシリアは時間的にも遠い時代の話だけど、そうしたものとして遥かなる旅を楽しんだ。(山崎幸雄)

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