様々なスタイルの「いいとこどり」
書籍名 | 池袋ウエストゲートパーク |
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著者名 | 石田衣良 |
出版社 | 文春文庫(368p/355p/320p) |
発刊日 | 2001.7/2002.5/2002.10.30 |
希望小売価格 | 514円/514円/1619円 |
書評日等 | - |
外側はハードボイルド仕立てのミステリー。その実は伝統的な日本の時代小説の骨法。芯にあるのは青春小説というか、ジュニア小説の成長物語。僕はこの小説を、そう読んだ。それにしても、うまい。
1冊に連作中編が4本ずつ。池袋の「トラブルシューター」マコトを主人公に、ストリート・ギャングやヤクザ、パソコンおたくの仲間たちと事件を解決していくパターンは一貫している。それが外側。
僕はこの小説を読みはじめたとき、大藪春彦や生島次郎はじめ多くの作家が試みたように、ハードボイルドやクライム小説を日本に移しかえようとした作品だろうと考えていた。第1作の「池袋ウエストゲートパーク」は、その意味でコクは足らないけれど軽快な和製ハードボイルドだったから。
でもこの小説は、どうもハードボイルドにのめりこんだ作者の思い入れが結晶したものというより、もっと周到に計算された作品かもしれないと思いはじめたのは、なんで池袋なの? という疑問を考えたところからだった。
僕は池袋には多少の土地勘がある。三十年以上前の話だけれど、大学はバリケードが張られて授業がなく、毎日のように池袋で日を過ごしていたことがある。東口の名画館、人生座と文芸座、今のサンシャイン通り近くのラーメン屋と喫茶店、マコトが暮らしていることになっている西一番街(今はミニ歌舞伎町状態)のそばにあった芳林堂書店とトリスバー。その六角形が僕の行動範囲だった。
どうころんでも小説の舞台になりそうもない池袋をタイトルにまで使うなんて、きっと作者は池袋育ちでよほど愛着があるんだろうな、などと考えていた。
ところがどこまで読み進めても、ウエストゲートパーク(なんのことはない、西口公園のこと)もサンシャインもなかった時代の、僕の知っている池袋がちらりとも出てこない。キャンディーズの蘭ちゃんなんてオールディーズの人名がマコトの口から出てくるわりに、昔の池袋のことはちっとも語らない。
そのあたりから、どうも作者は池袋育ちではなく、これは取材した池袋なのだな、と思いはじめた(経歴を見ても「東京生まれ」としか分からない。後に江戸川区育ちと知った)。では、なんで池袋なのか。
新宿には「不夜城」という名作があるし、中国マフィアが闊歩する怖い町にガキの探偵は活躍させにくい。渋谷では、あまりにもぴったりしすぎているし、リアルタイムの情報がテレビや雑誌で特集されるから、主人公を自由に動かしにくい。だから、新宿や渋谷から少しズラして池袋(こういうズラしは他にもあって、例えばマコトの音楽の趣味はヒップホップではなくクラシックと現代音楽なのだ)。
そう考えたところから、いろいろなことが見えてきた。このシリーズはハードボイルドやノワール、クライム小説、アクション小説、なかにはお笑いの要素やラブストーリーと、いろいろなスタイルが「いいとこどり」されている。だからこれは血肉となったスタイルというより、スタイルの引用なのだ。それをかなりのレベルで実現させてしまうところに、石田衣良のすごさがある。
引用されるのは翻訳ものばかりではない。実は僕がこの連作を読みながら、なにより似ていると思い浮かべていたのは藤沢周平の「彫り師伊之助捕物覚え」や「獄医立花登手控え」といったシリーズだった。
マコトは西一番街の果物屋の息子に設定されている。マコトの母親や近隣の人物のかもしだす下町商店街の匂いや(それが舞台を新宿や渋谷ではなく池袋に設定した、もうひとつの理由だろう)、事件のはじまり、あるいは事件の終わりにマコトがウエストゲートパークで桜の若葉やケヤキの落葉を見てもらす感慨などは、藤沢周平の時代ものや、さかのぼれば岡本綺堂の「半七捕物帖」以来連綿と積み重ねられてきた「捕物帖」ものの伝統を受けついでいるように思える。
だからこれは現代版「捕物帖」と言っていいのではないか。ハードボイルドやノワールは、時に日本人にはなじみにくいギザギザした文体や会話を用いるが、このシリーズのもつ情感や、すんなりとした口当たりは、そうした日本の時代小説が培ってきたものと考えるほうがいいような気がする。
短い段落をつなげていく断章構成も、例えばジェームズ・エルロイにもあるけれど、エルロイのように異なるイメージを衝突させてゆく鋭角的なモンタージュではなく、石田衣良のは映画でいえばフェイド・イン、フェイド・アウト、場面と場面のつながりに余韻を持たせ、読者に物理的にも心理的にも余白を感じさせる効果を狙っているように思う。
そんな周到な計算は、スタイルばかりでなく素材にも表れている。援助交際(もう古いが)、ファッション・ヘルス、「大人のパーティー」、インターネットの覗き部屋といった風俗関係(しかも「よい子は飛ばして読んでくれ」と言いながら、好奇心いっぱいの読者にシステムを紹介したり)、あるいは地域通貨、外国人娼婦など、最新風俗を取り込んで、このシリーズは都会の盛り場で何が起こっているかの情報小説ともなっている。
風俗を取り入れ、犯人探しよりも、その過程でディテールの描写や会話のアヤを楽しむことがハードボイルドの醍醐味としたら、その意味ではこの小説はハードボイルドのいいところを、きちんと抑えていもいる。
そんなふうにこの小説を読んでいって次第に分かってくるのは、このシリーズの核にあるのは健全なモラルに裏打ちされた青春小説、というよりジュニア小説の成長物語であることだ。最初にコクが足りないと言ったのは、そのことにかかわってくる。
「私、マコトくんは今のままじゃもったいないと思うんだ。いつかいってたよね。本当にやりたいことが見つかるといいなって。やってみなよ」
「一度だけ思いきり抱きしめられた。そのときすべてがわかった。二枚の鏡にはさまれて無限に跳ねあう理解の光り。その一瞬のあいだだけ、離れていた心がひとつになった」
「ストリートはすごく面白い舞台で学校だ。おれたちはそこでぶつかり、傷つき、学び、ちょっとだけ成長する(たぶんね)。町の物語には終わりがない」(いずれも「サンシャイン通り内戦」から)
「本当にやりたいこと」とか「心がひとつになった」とか「傷つき、学び」とか、50男の僕には恥ずかしくてギャッと叫びだしてしまいたい表現だけれど、この小説の主な読者が中学生、高校生から20歳前後であることをきちんと計算してのことだろう。
2冊目、3冊目になると、その傾向はもっとはっきりしてくる。「よい子のみんなはマネをしちゃいけないよ」と作者が直に読者に語りかけるし、「海外にいくときなんて、むこうのは信用できないから。ちゃんと日本製のコンドームをもっていくよ。乙女のたしなみだね」なんて教育もしてくれる。肝っ玉母さんみたいな母親の存在がだんだん大きくなってきて、テレビのホームドラマの気配も強くなってくる。
「池袋ウエストゲートパーク」は、だからとてもよくマーケティングされた小説である。僕の好みから言えば文章のコクが足りないが、この小説にそんなものは求められていないし、作者もそうするつもりはない。翻訳もの日本ものと、いろんな小説を「いいとこどり」し、読者が何を求めているかを計算し、その上でこれだけ軽快な物語をつくりあげる。その力はなかなかのものだ。
僕はこの3冊を2日間で読んだ。高校生のころ僕がはまったのは翻訳もので007、日本もので松本清張だったけれど、こんなシリーズがあったら熱中したにちがいないと思う。(雄)
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