疫病と世界史(上・下)【ウィリアム・H・マクニール】

疫病と世界史(上・下)


書籍名 疫病と世界史(上・下)
著者名 ウィリアム・H・マクニール
出版社 中公文庫(上280p・下304p)
発刊日 2007.12.20
希望小売価格 各1,320円
書評日 2020.05.16
疫病と世界史(上・下)

新型コロナウイルスで「ステイ・ホーム」を強いられている。報道やウェブで日々の感染者数に一喜一憂したりする。でもこういう機会だから、コロナウイルスと感染症がどういうものかを勉強してみたい。というわけでたどりついたのが1976年に書かれた本書。20年ほど前にベストセラーとなったジャレッド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のタネ本と言われている。

『銃・病原菌・鉄』では、スペイン人植民者が持ち込んだ疫病によってメキシコや南米の先住民人口が激減し、アステカ文明やインカ文明が滅んだ例が取り上げられていた。この『疫病と世界史』はもっと長い時間軸を取って先史時代から現代まで、疫病が世界史にどんな影響を与えたかが俯瞰されている。マクニールによると、彼がこの本を書く以前、歴史家にとって疫病は本格的な興味の対象でなく、もっぱら好事家が取り扱う分野だったという。だからこの本は、歴史家が初めて本格的に疫病という視点から世界史をながめたオリジナルな仕事と言えるだろう。

といって全体を紹介する余裕も力もないので、先史時代、中世ヨーロッパの黒死病、近代について、興味あるところをスケッチしてみたい。

何百万年も前、人類の祖先が熱帯雨林で暮らしていた間は、人類と人類(宿主)に寄生する寄生体との関係は安定していた。ところが人類が森からサバンナに進出し、道具や武器、言葉を獲得して動物を狩るようになり、食物連鎖の頂点に立ったことで生態のバランスが狂いはじめた。人類はサバンナの草食獣との接触によって新しい寄生体に侵されることになる。また連鎖の頂点に立ったことで人類の数が増えることになり、寄生体が宿主から宿主へ移動する機会も増えた。人口増加した人類は寄生体の側から言えば絶好のエサ場となったわけだ。「そこで、ある決定的な限界を突破すると、感染症は奔流のように過剰感染となって爆発する」。

時代が下って農耕が生まれると、寄生体にとって更に好都合なことが起きた。焼畑農業で生まれた空地は蚊の繁殖場所となり、マラリアが猛威をふるいだした。メソポタミア、エジプト、インダス河流域で灌漑農業が始まると水辺で働く農民に吸虫類が寄生し、住血吸虫症を引き起こす。家畜やイヌを飼うことで、ペスト、黄熱病、狂犬病、インフルエンザなどの感染症が動物からヒトへと移った。

やがて都市が生まれ人口密度がある限界を超えると、バクテリアとウイルスは中間宿主に頼らなくともヒトの間で生存が可能になる。「だから、中間宿主なしに直接ヒトからヒトへ移動する、感染性のバクテリアないしウイルス疾患は、とりわけ文明特有の病気なのである」。はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘などが次々に感染爆発し、やがて人々に免疫が生じて、抗体を持たない子供だけが罹る小児病や、ある地域だけに残る風土病となる。そんなふうに新しい病気が発生し、何度かの波があり、沈静化するまでには120~150年かかるという。

次に中世ヨーロッパの黒死病。著者は「ひとつの仮説」として、こう述べる。13世紀半ば、モンゴル軍が雲南省とビルマを掠奪した折にペスト菌を持ち帰り、モンゴル高原に繁殖するネズミの間で繁殖することになった。ペスト菌はやがて中国にも侵入する。一方、北アジアには東西を結ぶ隊商路があり、ペスト菌は隊商が運ぶ食料を食うネズミと、ネズミにたかるノミとともに西へ西へと旅してクリミア半島に到達する。そこから船に乗って地中海や北ヨーロッパの港町へと広がり、内陸へのびる放射状の道路を伝って、ヨーロッパと中東のほとんどの地域がペスト菌で汚染された。

隔離検疫という考えが生まれたのは14世紀イタリアだった。ペストの疑いのある港から来た船は40日間、陸上との交渉を絶つべし、と定められたのだ(検疫quarantineの語源はベネツィア方言の「40日」)。ペストの襲来は17世紀まで繰り返され、そのたびに症状が変わって激甚化したり弱まったりした。14世紀半ばの襲来では、4年間でヨーロッパ総人口の三分の一が死んだという。

ペストによる人口減は深刻だった。14世紀、農耕など単純労働に従事する労働力が少なくなって、それまでの社会経済秩序がヨーロッパ各地でさまざまに変化することになった。東ヨーロッパではユダヤ人によって市場主導型の農業が発達した。また労働力不足と市場経済が実質賃金の上昇をもたらした地域もあった。そこでは労働者は毛織物の服を購入でき(この時期、ヨーロッパは寒冷化していた)、貧民でも完全に肌を覆う衣服を着られるようになった。そのことで皮膚から皮膚へ感染するハンセン病やフランベジアの流行は下火になったが、一方、シラミと南京虫が媒介する発疹チフスが蔓延するようになった。

ペストは人々の心にもさまざまな影響を及ぼした。悪疫が引き起こした憎悪と恐怖は、異様な鞭打ち苦行者の集団を生みだした。彼らは互いに血みどろになるまで打ち合い、ペストをばらまいたと見なされたユダヤ人を襲撃することで神の怒りをやわらげようとした。鞭打ち苦行者は教会と国家の権威を認めず、彼らの祭祀は集団自殺の観を呈したという。説明のつかない突然の死を前に人々は従来の神学を信じられなくなり、神との霊的合一をめざす神秘主義が流行した。こうした反教権主義はやがて宗教改革を生む一因ともなった。

一方、イタリアの諸都市は隔離検疫や行動規制を取り入れ、食糧の供給を確保してペストに素早く対処することができた。その活力がやがてルネサンスを生みだす基盤ともなる。「一言にして言えば、ヨーロッパは新しい時代に入っていったのだった」。

19世紀末、コッホによってコレラ菌が発見された。以後、近代医学は次々に病原菌を発見し、予防と治療を効果的に行えるようになった。その結果、マラリア、高熱病、発疹チフス、結核といった感染症を世界的にかなりの程度抑え込めるようになった。1970年代、WHOは天然痘の根絶に成功し、人類と感染症の戦いは人類の勝利に終わるかに見えた。が、感染症を引き起こす微生物が反撃を開始した。その最初の一撃がエイズだった。「自然界の複雑に絡み合った生態的関係に、人類がなんらかの新しい手段を考え出して改変の手を加えるときには、必ずそうなると決まっているのだが、1880年代以来医学研究が達成した微細な寄生生物の制御ということは、予期せざる無数の副産物と新しい危機」を生むことになった。

例えば「病原生物が突然変異を起こす可能性」。変異を繰り返すインフルエンザが典型的だ。また例えば、「正体不明の寄生生物が、馴れ親しんできた生態系地位を離れ、……密集する人類を襲い……高致死性の病気に見舞わせる」可能性。いまパンデミックとなって世界を震撼させている新型コロナウイルスがこれに当たる。

本書はこう結ばれている。「人類の出現以前から存在した感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように、人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるだろう」。

つまり僕たちがステイ・ホームしている日々は、人間と感染症との未来永劫終わることのない戦いの、ある一コマだということだ。異常な日々でなく、世界史のなかに置いてみれば、過去にあり未来にもあるうる、ありふれた一日なのかもしれない。それ以前の、ウイルスの恐怖を知らなかった日々は、むしろ幸運な谷間の例外に属していたことになる。

数世紀に及ぶ中世ヨーロッパのペストは、市場経済や宗教改革やルネサンスを生む一因となったように、社会を変え人々の心をも変えた。とすれば、もし新型コロナウイルスが制御できずこれから数年、いや数十年にわたって間歇的に世界を襲うとするなら、「コロナウイルス以後」の世界はどういうものになるのだろうか。

グローバリズムの結果としてある貧富の格差拡大は、さらに激しくなるのか。人々の不安と恐怖が生みだす強権的な国家が地球を覆うことになるのか。この数カ月、各国でアマゾンの需要が増えネットフリックスの会員が増加したように、GAFA+Nの独占的な支配がいよいよ強化されるのだろうか。

そんな構造的な変化に目をこらしながら、僕たちが日々のなかで気をつけなければいけないのは、現代的「鞭打ち苦行者」にならないことだろう。「鞭打ち苦行」を生んだ基盤は、今の僕たちが感じているのと同じ不安と恐怖。それが合理的な説明のつかなかった当時、理由もなく自分を鞭打ち、ユダヤ人襲撃のように他人への敵意にたやすく転化した。

それは自分にも起こりうる。散歩していて、向こうからマスクをせずジョギングする人が来る。荒い息をしている。すれ違うまでのわずかな間に、どうするかを決めなければならない。できるだけ脇へ避け、目を合わせずに距離を取ろうとするか。相手の目を見て、抗議の意味をこめ無言でにらむか。そのとき、心のなかには小さな敵意が芽生えている。

心のなかに不安と恐怖があり、目の前に混乱する現実がある。その現実を前にして、「鞭打ち苦行者」のように人は自罰感情あるいは他罰感情に捉われやすくなる。自罰感情は、混乱する現実から目をそらし自分の巣に閉じこもろうとする。でもそれは逃げているのだからどこかに無理が生じ心身の不調を引き起こしやすい。他罰感情は、自分から見て悪しき行いをなす人間を名指し、罰しようとする。小さな敵意が積み重なり、集団になり、それが「正義」を背負ったりすると、他者に対する断罪となる。

現にウイルス感染が少ない県の行楽地では、他県ナンバーの車を見張ったり傷つけたりする自警団的な動きが生まれている。「自粛」に反して営業している店に警告して回る自粛警察も生まれている。SNSには、他者の行いや意見を非難する匿名の悪口雑言があふれている。いやあな気分だ。

そんな自罰感情にも他罰感情にも振り回されず、自分で判断し、自らの行動を決めるにはどうしたらいいのか。答えは出ないけど、少なくとも本書のように感染症について長い時間軸のなかで考えてみることは何がしかの余裕をもたらす。と、ここまで書いてきて、ふたつの言葉を思い出した。自罰にも他罰にも陥らないために、それを書き記しておこう。

ひとつは他者への態度で、封鎖された武漢から発信された作家・方方の日記の一節。「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(DIAMOND online、2020年3月6日)。

もうひとつは自分への態度で、鴨長明『方丈記』の一節を蜂飼耳の現代語訳で。「もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁ずる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。無言の行をするわけではないが、一人で過ごしているから、何かを言ってしまうという失敗も生じない。戒律を絶対に守ろうというのではなくても、破らせる環境ではないから、破る結果になりようがない」(山崎幸雄)

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