書籍名 | あなたの中の動物たち |
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著者名 | 渡辺 茂 |
出版社 | 教育評論社(288p) |
発刊日 | 2020.10.28 |
希望小売価格 | 1,980円 |
書評日 | 2021.03.17 |
著者は比較認知神経科学が専門、ハトはピカソ(キュビズム)とモネ(印象派)の絵を弁別認知出来るかという研究で1995年にイグノーベル賞受賞している。科学的に理解することの難しい領域を広く知らしめようとする努力と意欲は素晴らしい。
「ヒトだけが賢いのか」という本書のザブタイトルの通り、ヒトに固有の能力や機能と思われがちな「記憶力」「論理的判断」「道徳的行動」「自己認識」「美の認識」「脳の構造」などについて、多くの実験結果を紹介しながら動物たちの驚くべき能力を説明している。動物たちの各種認知能力をヒトと比較することで共通点や特異点を明らかにして、ヒトの「心」の起源を探るというのが本書の狙いである。
大昔、ヒトは自らを動物と区別することは無かったのではないかと著者は指摘している。そう言われてみれば、人が動物に変身する話はグリム童話を始めとして東西を問わず多いし、逆に功徳を積んだ動物が来世にはヒトに生まれ変わる話など幼児学習の一環として子供達に語り聞かせている。しかし、ヒトは生物界での優位性を自覚していき、生物界を三階層(植物→動物→人間)のボトムアップ概念で捉え、ヒトだけが心を持ち、動物たちは機械仕掛けに等しいと主張したのがデカルト。そして、19世紀になると科学として動物とヒトの連続性を提唱したダーウィンの進化論が世に出て、客観的にヒトを評価するスタートラインに立ったと言える。
長期の生物進化の系図を見ると、ハシゴの様な一本道ではなく、途中からいろいろな枝分かれをして進化していった。両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類など、外見からではその理論も理解し易いが、本書で語られている「認知」とか「心」と言われると、ヒトを頂点とする進化と思ってしまう自分がいることに気付かされるのは私だけではないだろう。比較認知学研究方法はヒトと近縁の動物の認知能力を調べることでヒトの心の進化の道筋を突き止めようとするものから、一部の鳥類と霊長類に見られる複雑な視覚機能など、まったく近縁でない種で類似した認知機能を持つ動物を調べて進化要因を解明していくという手法にまで広がって来たようだ。
そして、ヒトの認知機能を支える脳を三層構造として捉え、一番下に爬虫類の脳(反射脳)、その上に古い哺乳類の脳(情動脳)、一番上に新しい哺乳類の脳(理性脳)があるという定説が有ったが、これも現代ではヒトの脳は爬虫類の脳に何かを付け加えていったのではなく、ヒトの脳の一番上に大脳皮質があるように、爬虫類の大脳にも大脳皮質があることが判っている。つまり、ヒトはヒトの脳であり、ワニはワニの脳を進化させて行った。
こうした脳とは全く違った構造進化したのが昆虫の脳だという。昆虫は頭に大きな神経節を持っているが、それ以外の体節に神経節があって地方分権の様になっている。カマキリのオスはメスに頭を齧られても、問題なく交尾を続けられ、目的を達することが出来るという。これも、カマキリが獲得した能力と言われれば、それもまた進化である。
そもそもヒトの「記憶力」を測定する方法が何かあるのかと問われても、知能指数とかテストの点数と言った程度しか思い浮かばないのだが、著者は広辞苑をランダムに開いて、そのページ内の語彙で知っているものを数える。それを数ページ繰り返して、掲載されている語彙数に対して、記憶している語彙数の比率をサンプル的に計算把握する。因みに著者は78%だったようだ。この比率から、広辞苑全体25万語彙の内の記憶されている語彙は20万語と推論している。これは私もやってみようかと思ったが、78%より低かったりすると悔しい気もする。
イヌは、ヒトの音声語彙をどのくらい理解出来るのかの実験で1022語彙を弁別出来た例が示されている。また、貯食鳥のコガラは秋口に隠した餌を冬に餌を探し出しているのかの実験で、餌に同位元素で印をつけておいて、2-3ヶ月後に探させるとコガラは自分の貯蔵した餌を探し出すとともに、回収した場所には二度と探しに行かないという空間記憶能力の実験結果は驚くばかりである。
ヒトは明日の予定を考えて準備をしたりするが、動物も未来を予測して行動するのかという命題に、コウイカを使った実験で挑戦している。コウイカはエビやカニを食べるのだがエビの方が好きだという。コウイカをA・Bの二つのグループに分ける。朝は両グループにカニを与える。夜はAには必ずエビを与えるが、Bにはエビをやったりやらなかったりする。するとBは朝あまり好きでないカニを食べ続けるが、Aは朝食のカニを少なめに食べるようになるという。夕食のエビを楽しみに朝食を減らすという。本当かと思ってしまうのだが、疑問より面白さが先に立つ結果だ。
「論理的推論」も面白いテーマである。カラスは群れの中で順位づけをするが、総当たりで喧嘩する訳ではない。仲間の喧嘩を見ていて自分の順位を推論するという。例えばA,B,Cのカラスが居て、Cは「Bは自分より強い」という事を知っているとすると、AとBが喧嘩してAが勝った場合、CはAに対しても戦わずして服従の姿勢をとる。また、A,BがCにとって未知の個体の場合は、ABの喧嘩の結果に関わらず服従の姿勢はとらず、喧嘩を始めるという。
また、ヒトは手品で有るべきものが無くなったりすると物理的因果関係に反するのでこれを面白がる。チンパンジーも手品を見せると不思議そうにあるべきものを探すが、その手品を繰り返し見せると怒りはじめるとのこと。不合理を理解する能力は等しいが、その不合理を楽しむかどうかという感覚差は大きい。
だんだん複雑な認知の話になっていき、動物による共感や救援の例として、アリアナに落ちた仲間を助けたり、吸血コウモリが血縁の無い仲間に餌となる血を分け合う救援行動の説明を読んでいると、そうした能力をどうやって手に入れたのかだけでなく、ヒトを超えているのではないかと思ってしまう。そして、著者はだめ押しのように、「ヒトは『飢えた子供の写真』には共感するが『飢えた子供の統計数字表』には共感する度合いが低い」とヒトの共感度の低さを指摘する。
「美」が判るかというテーマでは、まさに著者のイグノーベル賞の受賞実験のハトによるピカソとモネの絵の識別実験である。ただ、ピカソの絵とモネの絵を識別させているだけではない。キュビズムの他の作家の作品と印象派の他の作家作品との識別、原色ではなくモノクロの画像での識別、画像を少しピンボケにしても識別するという。ヒトの絵画鑑賞や理解の能力と同等で、ハトは複数の情報を統合して絵画を認知していると著者は説明している。ただ、ヒトは事前に画像だけでなく言葉によって知識蓄積がされていることは大きな要素のはずだ。純粋に「美」の感性だけで識別をする訳ではない。心とは曖昧なものと言う著者の指摘は鋭い。美しい女性の写真(同一人物)を二枚見せられて、一枚はアトロピンという瞳孔を拡大せる目薬を滴下されている写真の場合、ほとんどの男は滴下された方の写真を選び、そして、選んだ理由を問われると説明出来ないというぐらい曖昧なのだ。
本書を読みながら、人間の認知能力の特徴を実感する以上に、動物たちの認知能力の多様さを再認識した。動物との違いが有るとすると、ヒトは生まれてから長い期間の学習を通してダウンロードされたアプリが多様であることにその理由があるという。そのアプリを作り、学習し、活用する支えが言語なのだろう。こうした遺伝子によらない情報伝達がヒトの認知能力の高さを支えている。身体的な意味での脳には得意不得意はあっても、ヒトの脳が一番高い所に有るわけではない。
それにしても、ヒトをヒトとしている根幹能力の言語を「正しく」使えない政治家の多さに辟易としながら、動物たちの頑張りに無条件に納得した読書だった。(内池正名)
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