書籍名 | ジャズ喫茶論 |
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著者名 | マイク・モラスキー |
出版社 | 筑摩書房(304p) |
発刊日 | 2010.02.27 |
希望小売価格 | 2,730円 |
書評日 | 2010.05.06 |
日本のジャズ喫茶論をアメリカ人が書くとはいささか複雑な気持ちになる。それも、評者より10才以上若い著者である。ジャズ喫茶にまつわる本はいろいろ出版されたが、「昭和ジャズ喫茶伝説」という、まさに伝説的な平岡正明の本が頭にあるからなおさらのことかもしれない。 一方、本書は1956年セントルイス生まれのマイク・モラスキーが、日本における昔からのジャズ喫茶を訪ね、取材を重ねるというオーソドックスな手法で「ジャズ喫茶論」を展開しているもの。モラスキーがジャズ喫茶全盛期と指摘している1958年から1972年という時期の後半は評者が最もジャズを聴いていた時期でもあり、ジャズ喫茶の常連客の一人であった時期そのものである。この時期をどう料理しているのだろうかと期待しつつ読んでみた。
「・・・全国の店主や常連客とのインタビューを踏まえて。ジャズ喫茶という日本独特の文化空間をもっと広い視野に立って眺め、その機能と役割や、存在意義と歴史的変遷などに焦点を当てることを試みた。簡単に言えば、『ジャズ喫茶とは何か?』という根源的な問題を冷静に、いろいろな角度から見直してみるのが本書の目的である。とくに’50年代末期から’70年代半ばまでの若者文化におけるジャズ喫茶の意味を再考したい。そして、現在きわめて多様化している音源メディアとの関係を考えながら、まさしく重要な音源メディアのひとつとして、ジャズ喫茶を新たに捉えなおす試みである。」
こう述べているように、時代の区切りを通常のジャズ史に頼った定義ではなく、日本におけるジャズ喫茶をとりまく文化や社会現象という文脈で構成している点が新鮮だ。そして、LPレコード全盛の中における音源メディアの一つとしてあのジャズ喫茶という空間の意味づけを考えてみようという試みは「日本」という限定空間におけるジャズのあり方を際立たせていくための効果的なポイントだと思う。
「ジャズ喫茶」についての定義が紹介されているのだが、「最低数百枚のレコード・コレクションがある」「高音質・高価格なオーディオ・システムが設置されている」「店主・店員がジャズ・レコードに詳しい」「昼間も営業しており、コーヒー一杯だけを注文し、約二時間座っていても顰蹙をかわない」「看板や入り口に『ジャズ』と明記している」、等々。まさに、評者が高校生から大学生だった頃に入り浸っていたジャズ喫茶そのものである。つまり、ジャズ喫茶とは「・・普通の客にとって高価なため所有困難なレコード・コレクションと音源をもって<異文化の音>を聴かせる場であった。・・・また、その音源に集中しやすい環境を提供することもその役割だった。・・完全なる静寂・不動の聴取ポーズが定着するのは’60~’70年代前半の硬派ジャズ喫茶だった・・・」
「論」である本書を読みながら、個人の回顧に浸るというのも邪道ではあるが、1960年代ではレコード(LP)はひどく高価だった。評者が大学一年のとき(1966年)に受験の中学三年生を相手に家庭教師をやっていたが、週2回教えて一ヶ月間の月謝は2500円だった。その金額は輸入盤のレコードが一枚やっと買える金額。そして、渋谷の道玄坂のヤマハに行き輸入盤を注文すると到着まで一ヶ月以上待たされるのが普通だった。そのように学生にとって輸入版のLP一枚を購入することは金も時間も投入するエネルギーは大変なものだった。従って、ジャズ雑誌老舗の「Swing Journal誌」に紹介された新譜やラジ関(ラジオ関東)のミッドナイト・ジャズ゙などのラジオ放送で紹介されたジャズを聴きたいと思えばジャズ喫茶に行くというのは極めて自然なことであった。
そうした空間を形成していたジャズ喫茶の歴史的構成を本書は提起している。まずジャズ喫茶創世期(1929-40)として、同時代に隆盛を極めた、いわゆるダンスホールと対峙する形で鑑賞空間としてのジャズ喫茶が発生したものの、1930年代半ばから男女の出会いの場であったダンスホールから客がジャズ喫茶に流れ込んだことから「社会秩序を乱す場であり、不良少年少女の温床」として見られるようになった時代である。次の低迷期(1942-52)は第二次大戦の真っ只中から戦後の混乱期である。戦時中は敵性音楽としてその演奏もレコードを聞くことも制約されていた。そして、終戦後も物資は不足し、FEN(Far East Netwark)による英語放送からのジャズが家庭内にも溢れていた時代だ。
復活期(1953-57)はアメリカからジャズ・プレイヤーが多く来日して「ジャズ・ブーム」が起こった時期である。1953にはJATP(Jazz at the Philharmonic)が日劇で演奏しているもこの時代だ。この頃に、後に名店といわれるジャズ喫茶の多くが開店している。そして、我がジャズ史そのものでもある全盛期(1958-72)を迎える。’60年代になるとアメリカとの文化的距離感が縮まっていく中で「スイング」から「モダンジャズ」に聞き手が目覚めていったのだが、1958年に公開された「死刑台のエレベーター」や「危険な関係」といった映画がモダンジャズを巧みに取り入れていたこと、1961年に来日したアートブレーキーの演奏にジャズの新たな「ブーム」を迎えた。この状況をモラスキーはこう表現している。
「要するに、’60年代前半では一般の日本の若者にとって、ジャズの顔が急に『黒く』なったということがいえる。もちろん、その前から『ファンキー・ジャズ』を聴いたり、・・『フリー・ジャズ』の実験を聴いていたジャズ通も多少いたようだが、彼らは例外だったことに変わりはない。・・・・この時期ジャズ喫茶に入る若者はジャズを(黒人の音楽)だと認識したおかげで、初期のジャズ喫茶とは違う意味でありながらジャズを(異文化の音)として受け止めていた。・・・」
なるほど、そうした見方もあるのかと思う。ただ、個人的には「白人」のジャズ、「黒人」のジャズという選別をして聞いていたかというとけしてそうではなかった。ビアニストでいえばオスカーピーターソンであれ、ハービーハンコックであれビルエバンスもエロルガーナーも好きだった。総じて言えば「黒人」のプレーヤーのレコードを多く聞いていたのは事実だ。しかし、この時期の新宿「DIG」に行ったところ、「IN PERSON AT EL MATADOR! Sergio Mendes and Brasil’65」が新しいDiskとして陽気に掛っていたことも懐かしい。今思えば軽音楽といっておかしくない。「DIG」といえどもかなり広いジャンルのレコードを掛けていた。加えて、個人的にはジャズ評論家の油井正一氏や牧芳雄氏とも接する機会もあり、ジャズ通史というべき知識をそれなりに持って同時代のジャズを聴いていたことから「黒」か「白」かといった聞き方ではなかったように思う。こうした感覚の差があるとしても、モラスキーの論点・論旨に欠陥があるということではなく、評者は彼の言うところの「例外」なのだろうと思う。
「ジャズ喫茶人」という章を設けてジャズ喫茶のマスターたちを活写している。内向型・外向型・水商売型という三分類を試みているのだが、この型によって店の雰囲気も客のジャズ聴取姿勢なども大きく左右されることから重要な要素として指摘している。評者の体感でいえば「内向型」というか今でいう「オタク」的なマスターが多かった。もっとも高校生の頃はかなり後ろめたさをもってジャズ喫茶にいっていたのでますますそう思っていたのかも知れない。例えば、日暮里の「シャルマン」は高校の授業をサボって行っていた訳だし、日比谷図書館で勉強するといいながら、図書館にたどり着くことなく有楽町の「ママ」に沈没したことも数かぎりない。「ママ」のマスターは学生服姿の私を捕まえて、「高校生は勉強しなければだめだ」などと説教をしてくれた。懐かしい。どうも自分史に置き換えて本書を読んでしまったが、それも致し方ないと勝手に結論付けている。(正)
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