書籍名 | 昭和ジャズ喫茶伝説 |
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著者名 | 平岡正明 |
出版社 | 平凡社(300p) |
発刊日 | 2005.10.7 |
希望小売価格 | 1800円+税 |
書評日等 | - |
ジャズを語らせて平岡正明以上の耳と文体を持っている書き手はいない、と思っている。
文章のリズムの歯切れよさ、ブルーノートをちりばめたファンキー・ジャズみたいな語り口。冗談をキメる呼吸。なかでも、これは自分でやってみてはじめてその難しさに愕然としたのだが、音を語って読み手にイメージを喚起させる力。文章を書くことも職業の一部である者として、いっとき彼の文体を真似ようと試みたこともあるけど、とても無理だと早々にあきらめた。
そんな平岡正明の文体は、1960年代東京のジャズ喫茶のなかから生まれた。ほの暗い店内で、他人としゃべることもなく、大音量のジャズに修行僧のように耳を傾ける。いまではほぼ絶滅したそんなジャズ喫茶の密室の夢想から、平岡正明は彼のジャズ論と革命論を紡ぎだしていった。
「昭和ジャズ喫茶伝説」は、1960~70年代に彼が通ったジャズ喫茶の記憶を通して、ジャズと政治体験を回想した「青春記」。などと呼んだら、著者はこれはセンチメンタル・ジャーニーじゃないと怒るかもしれない。
でもここには、あの時代の熱い空気が、若い読者にはうざったいと言われるだろう濃密さで再現されている。ちなみに彼の政治体験とは、「60年安保闘争以後、早大ブントと訣別、暴動をプロレタリア最大の反抗の武器として捉え、政治結社「犯罪者同盟」を設立」(巻末の著者紹介)したことを指す。
平岡がいちばんよく通ったのが新宿の「汀(なぎさ)」。まずは、ジャズ喫茶へ通う道筋、新宿駅南口に降り立った情景描写から入る。「あのころは甲州街道口を出て左へ向うと場末だった。右へ向うと、淀橋浄水場の原野だった。広大な跨線橋から鉄路を眺める景観は、シカゴ的という感じがした」。いかにも平岡らしいセンスとイメージ。
駅前を左の場末に向かってラーメン屋と映画館の間にある店内に入ると、まず装置に目が行く。「アンプは、英国製リークのポイント1ステレオ、ピックアップアームは、国産リオンの質量分離型TAに、グレースF5Dという針をつけて、野放図に鳴る「汀」の音を、俺は好きだった」。彼の書くものから、そうらしいとは思っていたけど、平岡は大変なオーディオ・マニアでもあるのだ。
店ではジミー・スミスのオルガン・ジャズがかかっている。ジャケットは、無賃乗車した鉄道の貨車からジミーがトランクを下げて降りようとしている写真。そこからの論の発展は、これこそ平岡正明みたいな見本。
「腕の筋肉は見えないが、手すりにつかまる右腕の影が、赤錆色の貨車にはっきりと映って、都会に出てきた黒人青年の決意をつたえてよこす。無賃乗車するジミー・スミスの手が知的だ。その大きな手は、ジャズの階級性の大きさだ。2人並んでサンドイッチをパクついたり(「ダイナミック・デュオ」)、通りすがりの姐ちゃんのいいケツに口笛を吹いたり(「クール・ストラッティン」)、敵階級婦人がお下品ねと眼を剥くような都会生活の点描に、美とリズミックなものを見つけだすジャズの、階級的な大きさだ」
この本では新宿界隈だけでなく、銀座・有楽町、池袋・谷根千、高田馬場・早稲田、中央線、渋谷・三茶・下北、カルチェ・ラタン(注・御茶ノ水のこと)、そして横浜のジャズ喫茶が取り上げられている。
60年代後半から70年代前半、僕もジャズ喫茶に入り浸っていた一時期がある。平岡より一時代後のジャズ喫茶体験は彼のように豊饒なものではなかったけれど、それでも本書を読んでいると、あの時代の音と空気が昨日のことにように蘇ってくる。そこで、平岡の描写に触発された僕の記憶を臆面もなくメモしておきたい。
DIG(新宿)。「それまでのジャズ喫茶のマスターとはちがう雰囲気を敏感に察知して、「DIG」には、求道的なファンが輸入新譜を聴きに来た。「DIG」でコルトレーンを聴くということは、全国的に起こっているジャズのファン現象の、そのトップに自分はいるということを、自負できたのである」
確かにこの店の雰囲気は、ほかのジャズ喫茶と違った。かかるアルバムもフリー系のものばかりだったので、息苦しさと多少の気後れもあり、めったに行かなかった。その後、紀伊国屋書店を裏に出てすぐ右に姉妹店DUGができ、そちらにはよく通った。この地下の店にはいろんな思い出が詰まっている。DUGは今も靖国通りに健在だけど、ジャズ喫茶というよりジャズ・バーのはしりのような店だった。
ニュー・ポニー(新宿)。「「ニユー・ポニー」といったか、コマの近くに、よく通った二階の店があったのだが、行って夜をすごした回数の多さの割には、記憶が薄い。……白仁というアナーキストがいて…この男に、平岡クンはジャズを聴くの、と言われたのがこの店だ」
学生時代、新宿ではこの店にいちばんよく通った。そういう系統(?)の客が集まる店だったのか、同じ大学の、やはりアナーキストと噂されていた年長の男が常連で、女友達を連れていったら鉢合わせし、ニヤリとされた記憶がある。
びざーる(新宿)。「防空壕みたいに暗いジャズ喫茶だった。……やたらに高級なスピーカーを使っているだけに、闇の中で、ハイファイに鼻をつままれるような演出過多にいやけがさして、二回行って行くのをやめた」
紀伊国屋近くの地下だけど、なぜか階段の途中の一段だけ高さが微妙に違い、店を出ようとする客がたいていそこで蹴つまずく。アンティークめいた凝った照明の、本当に暗い店で、階段を上がって表へ出ると外界の明るさに目がくらんだ。現実という外の世界に大学生らしい違和感を感じていたので、地下の暗い密室が快かったのだろう。大学へ入りたてのころ、この店へ行くと大人になったような気がした。今もショット・バーとして営業している。
フォー・ビート(早稲田)。「スタックスのオール・コンデンサー・システムを使用するというのが、うたい文句だった。行ってみたが、ジャズの音ではなかった」
僕は平岡みたいにオーディオに詳しくなかったから、この店の畳半畳くらいありそうなJBLスピーカーから出る大音量にひたすら感動した。ここで聴いた「ファイブ・スポットのエリック・ドルフィー」で、馬のいななきのようなドルフィーのバスクラリネットは今も記憶に残る。授業と授業の合間に空き時間ができると、たいていこの店に行っていた。
もず(早稲田)。「かみさんの実家が奉仕園の近くにあるので、大通りを渡ってすぐの「もず」には、よく行った。中年のおばさんがコーヒーを入れ、レコードを回していた」
グランド坂上交差点近く、2階の狭い店。僕の時代はおばさんでなく、学生のバイトのようなマスターがいた。フォー・ビートに飽きて、今日はちょっと気分を変えようというとき行くのだけど、デニー・ザイトリンの「ライブ・アット・トライデント」がよくかかった。マスターの好みだったのだろうが、フリー全盛の当時、こんな地味な白人ピアノ・トリオは他ではかからなかった。
ママ(有楽町)。「「ママ」にも学生時代からよく行っており、…アルテックのホーン型を入れて、音がハイファイになったときよりも、以前の、コーナー型モノラル箱時代のほうが、秘教的な雰囲気があった」
コルトレーンの「至上の愛」はこの店ではじめて聴いた。マスターが講釈好きなのと、雑談しているとすぐ「私語をつつしむよう」カードが回ってくるのが煩わしかったけど、有楽町銀座方面に出たときは必ずこの店だった。招き猫の置物があるパチンコ屋脇の階段を数段上がったスバル街にあり、このどんづまりの一角はいかにも戦後的な匂いがした。
イトウ(上野)。「上野池之端の「イトウ」がノスタルジックだ。飾りガラスのはまったほの暗い店内は、戦前の美大生好みのモダン感覚をのこしている。この店でジャズを聴いていると、夜汽車で旅をしているような気持ちになった」
今は風俗街になってしまった通りのドアを開けると、横並び2人がけのシートが奥のカウンターを向いて左右に並んでいる。それが確かに夜汽車を思わせるのだった。他のジャズ喫茶は80年代に次々に店を閉めたけど確か90年代前半まで残っていて、仕事帰りにときどき寄った。ここで50年代の、ジャズがいちばん輝いていた時代のハードバップを聴いていると、闇の中で心が安らぐのが実感できた。
シャルマン(日暮里)。「鰻の寝床のように細長い店に、左右スピーカーの間隔が十分にとれないままに、アルテックが並んでいて、コルトレーンがきつい音で鳴っていた」
はじめてジャズ喫茶なるものに入ったのがこの店。高校の同じクラスだったUに誘われて、もうひとりのMと3人で授業をさぼって行った。UとMはジャズに詳しくて、フォーク少年だったこちらには、世の中にこんな音楽があるのかと新鮮だった。美しいお母さんのいるUの家へ遊びに行ったらオスカー・ピーターソンの「ナイト・トレイン」を聴かせてくれて、それがジャズにのめりこむきっかけ。シャルマンは今はバーになっていて、当時のレコードがおいてある。ちなみに、この「今月の本棚」の相棒(正)がUです。(雄)
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