それでも三月は、また【谷川俊太郎ほか】

それでも三月は、また


書籍名 それでも三月は、また
著者名 谷川俊太郎ほか
出版社 講談社(290p)
発刊日 2012.02.25
希望小売価格 1,680円
書評日 2012.06.11
それでも三月は、また

谷川俊太郎、川上弘美、村上龍をはじめとした、17名の作家と詩人によるアンソロジーである。日本財団の「Read Japan Project」による刊行。編集者としてElmer LukeとDavid辛島という二人が名を連ねている。二人とも日本の文学作品を英語圏に紹介したり、翻訳している人物。この二人が17名を選んだ考え方は示されていないのだが、コンテンポラリーな感覚で言えばそれなりの統一感があるのかもしれない。ただ、評者しては初めて読む作家もおり刺激的であった。

文学である以上、作家の感覚や感情で表現されているため、当然のことながら作品毎の好き嫌いが出てしまうのは止むを得ないことであるが、3.11によってもたらされているイメージの多様性を考えると一冊のアンソロジーが統一感を持って作られるということ自体至難の業だろう。本書の中で、今回の地震や津波といった自然災害にインスパイヤーされて書かれているもの6編、原発事故にインスパイヤーされて書かれているもの4編、両方もしくは不明のもの7編である。

3.11から一年が過ぎ、あの日は我々にとって大きく二つの側面を持っている事がますます明らかになってきている。それは自然災害の側面に代表される「即物的な死」と原発事故という側面による「緩慢な死」というまったく異なった事実を我々に突きつけているからだ。3.11として全てがゴッタ煮のように語られるのはもう今年が最後なのではないのか。3.11という事実に触発され、表現された作品達の中からいくつかの作品を取り上げてみる。

川上弘美の「神様2011」は本人のあとがきも掲載されているように、1993年に「神様」という掌編の対になる作品として3.11後に書かれたもの。オリジナルの「神様」は日本人の心の中には色々な姿をした神があるのだが、一人の女性と近くに引っ越してきた「熊」の姿を借りた「神」とが一日散歩(ハイキング)をして過ごすという物語である。誠実で、昔気質で、包容力のある「大きな熊=神」はあくまでも優しい。非日常が日常的と紙一重といった感覚を持たせてくれる不思議な小説。

そして、「神様2011」は「神様」と同じ文章構成を使って3.11の原発事故後の話として書かれている。同じように、近所に引っ越してきた熊とともに主人公は散歩に出る。被爆に注意したりしながらの散歩だけに、オリジナルの大らかさに比較して原発事故による具体的な日常生活への影響をたんたんと受けとめて過ごす「熊と私」の姿が静かに表現されている。この作品は2011年の群像の六月号に掲載され、九月には単行本として出版されているものだが、本書のようなアンソロジーに加えられても、川上弘美の創作力は光っている。この掌編のあとがきも掲載されている。

「何億年もかけてゆっくりと地中で減り続けていたウラン235を人間はかき集めてぎゅーとかためて、さあどんどん分裂せよ、光りを出せ、熱を出せ・・・・と鞭打ったわけです。原爆ではウランをいっぺんに働かせ、原発では小出しに働かせ・・・ウランの神様がもしこの世にいるとすれば、いったいそのことをどう感じているのか。やおよろずの神様を、矩を越えて人間が利用したときに、昔話ではいったいどういうことが起こるのか。・・・・静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。この怒りをいだいたまま、それでも私たちはそれぞれの日常を、たんたんと生きていくし、意地でも『もういやになった』と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから」

川上未映子の「三月の毛糸」は、若い男女が3.11当日旅行先の京都のホテルという空間での話。本書のアメリカ版・イギリス版のタイトル( March Was Made of Yarn)はこの小説の中の一節がとられている。この短編の魅力は、けして他の表現方法(映像や音)で代替出来ない心の世界を表現しているところだと思う。女は妊娠しており、多少疲れてホテルにチェックインしている。うたたねから目覚めた女はどんなものも毛糸で出来ている世界を男に語り始める、

「・・・子供が生まれる夢だったの。毛糸で生まれてくるのよ。・・・その世界は、何もかもが毛糸で出来ているの。水も人も線路も、海も、とてもやわらかくて、丈夫な糸で編みあがっているの・・・・いやなことがあったり、危険なことが起きたら一瞬でほどけて、ただの毛糸になってその時間をやりすごすのよ。・・・そこでは三月までが毛糸でてきているの・・・」

携帯電話で地震があったらしいとの友人からの連絡にも疲れ果てた二人には重い時間が過ぎていく、そして女は今恐ろしい事が起きようとしているのではないか、いまから新しい生を授かることが幸せなのだろうかとおそれおののく。毛糸を別の物にすることが出来る。そうつぶやく女に対して、男は理解できないまま深い眠りに落ちていく。全てがほどけていってしまいそうな感覚が鋭い。

いしいしんじの「ルル」という小説は、前半は「ルル」と名づけられ養護施設で飼われていた犬が津波に巻き込まれながら施設での生活を思い出し、5人の子供たちを救い出していく話。子供たちに愛されていた「ルル」の気持ちは純粋で献身的である。小説の後半は一転して、12年後にその施設の子供たちが集う場での会話となる。そこでは、だれともなく、あの犬の話になる。しかし当時、その施設ではペットを飼う事は禁じられていた。子供たちは生活の寂しさから空想のペットを作り上げて、皆で育てていたのだ。えさをあげ、交替で散歩をして、彼らの生活の一部になっていた。

「・・・子供は翌朝、次の当番に引き綱を手渡し、前の日に犬がやった事をこと細かく報告する。・・・当番が誰かによって犬のからだは茶色になったり、黒くなったり・・・・」

会場に集まった32名のうち、5人が固まって天井を見上げ、小さな声で「ルル」と叫び、その声はだんだん大きくなって、会場全員の12年前の子供たちが声をそろえて「ルル」と叫ぶ。 3.11は私にとってもまったく想像していなかった事態だった。津波という自然現象は知識として判っているし、被害についても歴史的事実として理解している。しかし、そうした知識を吹き飛ばす規模でその災害は目の前に出現した。また、原発の事故はその影響をイメージ出来ていたかというと、まったく想像していなかった。想像力の欠如といわれればその通りである。当然、多くの人達の心に不安や諦念といった雲が厚く掛かったはずだ。

川上弘美の「神様2011」は他者に怒りを振り向けることなく、自らに対しての怒りと他人任せにしていかないという意思の表明であり、生き続けることに対する宣言だ。川上未映子の「三月の毛糸」では、表現されているもろもろの不安や恐怖といったものを語り続けるなかで、危機をやり過ごすために「全てが毛糸に戻ってしまう」という心の畳み込み方は哀しい納得だが、この男女が「三月の毛糸」を使って、次に何を作るのだろうかという期待をあえて持ちたいと思って読み終えた。いしいしんじの「ルル」も心の中の話だが、子供たちの共通した気持ちが救われる。3.11で人々の心の中に染み付いた傷は様々であるし、その色は濃く消えることはない。それだけにこのアンソロジーでは「具象の小説」よりは「心象の小説」に惹かれたというのが結論。(正) 

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