植物考【藤原辰史】

植物考


書籍名 植物考
著者名 藤原辰史
出版社 生きのびるブックス(238p)
発刊日 2022.11.30
希望小売価格 2,200円
書評日 2023.02.15
植物考

冒頭で、まずひとつの疑問が提出される。ほとんどの人間は、自分たちを植物より高等なものだと思っていないだろうか、と。なぜなら、人間は植物を食べられる。でも植物は人間を食べられない。人間は植物を素材に家をつくり住むことができるが、逆はできない。同様に、人間は植物の繊維を使って衣服をつくること、植物を育て、刈り取り、料理することができるが、植物は人間をそのようにはできない。

でも、本当にそうだろうか、と藤原は問う。植物は人間がいなくても生きていけるが、人間は植物がなくては生きていけない。「二酸化炭素と光で糖を合成できる人間が生まれないかぎり、植物の生存条件はそのまま人間の生存条件である」。それなのに、なぜ私たちは人間が食べたり、住んだり、着たり、育てたりできることを、植物は「できない」と表現するのか。本当は「できない」ではなく、植物はそういうことを「する必要がない」のではないのか。

著者の藤原辰史は、20世紀前半の農業史、食の思想史を専門とする研究者。『給食の歴史』『ナチスのキッチン』などの著書がある。本サイトでも、第一次世界大戦後のドイツの飢餓をテーマにした『カブラの冬』を取り上げたことがある。素材として農業や食物を扱うが、あくまで社会科学の著作。この本は、藤原が「人文学」の立場から改めて「植物とはなにか」を考えたものだ。

藤原はまず「根」「花」「葉」「種」といった植物のパーツを取り上げながら、「植物性」あるいは「人間の植物性」といったことを考える。例えば「根」。

「根が生える」という表現があるように、根を持つ植物は一般的に動かないものと考えられている。でも植物は本当に動かないのか、と藤原はここでも疑問を提出する。ガジュマルのように気根を垂らして文字通り動く植物もあるが、そうでなくても、根は地中で活発に「動いて」いる。どこに豊かな土があるかを探って動き回り、ネットワークを張り巡らし、水や養分を吸収し、地上に出ている茎を支える。葉や花も太陽を求めて「動く」。私たちが植物を動かないと考えるのは、植物の遅い動きや反復される微細な動きを「動き」と捉える訓練がなされていないからだ。

藤原は、根に関連して「人間の植物性」をこんなふうに考えている。植物の根と似た動きと働きをする人間の器官として、腸内の輪状ヒダや腸繊毛がある。口から胃を経て消化酵素や腸内微生物の働きで腸内を通過していく食物は、いわば土壌である。その土壌に輪状ヒダや腸繊毛という根を張り、そこから養分を取り込む。「人間も含めた動物は、消化器官やそれに類するものに『根』を生やして、口から肛門までの消化器官を通り抜ける土壌から栄養を吸い取る『動く植物』である。……また、肺胞にまるでケヤキの木の枝のように毛細血管を張り巡らし、酸素を取り込み、二酸化炭素を捨てる、肺に枝を伸ばした『動く植物』でもある。人間と植物の食べる、または、呼吸するという行為にはそれほど大きな違いがあるだろうか」。

そんなふうに「根」だけでなく「花」や「葉」についても、植物には「知性」があると主張するステファノ・マンクーゾや、植物だけが地球上の基本要素によって自分の世界を築き上げたという哲学者、エマヌエーレ・コッチャを引用しながら論じている。でも、本筋だけでなくちょっと脇道にそれたところも、いかにも食と農の思想史を専門とする藤原らしくて面白い。

例えば、近代社会の根源には「移動の自由」という考え方がある、という。近代社会は人間に移動せよ、動け、休むなと養成しつづけてきた。「根」を退化させることで経済活動の活性化を図ってきたともいえる。そのため、人びとは根っこを抜かれる感覚、場所を移動することの恐怖の感覚を忘れてきた。世界には「根無し草」として差別されてきた人びとがいる。ロマがそうだし、かつてナチスはユダヤ人をそのようなものとして見た。私たちは植物の「根」を考えることで、権力によって強制的に移動させられたり隔離された人びとの心の入り口に、ようやくたどりつくことができる、と。

また例えば世界史上の重商主義は、植物を視点にすると次のように表現できる。重商主義というのはヨーロッパで消費される熱帯植物と、そこで生産される毛織物など工業製品とが、熱帯地域とヨーロッパとの間で交換される物流のことである。初期段階でポルトガルは、熱帯アジアに商業拠点を置き、現地の商人からそれを購入しヨーロッパで売却することで利益を得た。それは植物の属地的、環境決定的な性質に即した人間行動だった。しかしイギリスなど後発国は植民地をつくり、アフリカからの奴隷を労働力としてプランテーションを運営した。だがプランテーションという人工的空間で単一植物を栽培しはじめると、「雑草」や「害虫」など「排除すべきもの」が生まれ、それを退治するために一層多くの奴隷を必要とする。「人間の、人間や自然に対する権力や暴力の発現の背景に、植物を自分のものにしようとする飽くなき欲望があったことを、あらためて確認しておきたい」。

そうした認識の延長上で、藤原は「緑」という言葉にも違和感を感ずるという。ふつう、「緑」という言葉はソフトで、環境にやさしいように響くが、あらゆる植物を一緒くたにした「粗雑な」使い方、例えば「この地域は緑が多い」とか「緑ゆたかな住宅地」などと人びとが言うとき、「緑」という響きに「何か人種主義的な、あるいは暴力的なもの」を感じてしまう、というのだ。また、この本自体もその危険を持つが、植物と人間を比較したり比喩的に語ったりすることにも「自己警告を発しなくてはならない」。人間世界を植物世界に安易に喩えると、不必要な人間は「雑草」になり、植物を食い荒らす「害虫」は、化学的な農薬をかけられ「駆除」されなければならない、ということになりかねない。

農薬ということでは、枯葉剤についても藤原は厳しく言及している。動物が生存しない世界でも植物は生存できるが、酸素をつくりだす植物が生存しない世界で動物は生存できない。枯葉剤は農薬を濃縮したものだが、それだけでなく製造過程の不純物として猛毒のダイオキシンが含まれていた。枯葉剤それ自体も、ナパーム弾の使用など高熱の状態でダイオキシンに変化する。ヴェトナム戦争では枯葉剤によって山野が死に絶え、多くの奇形児が生まれた。枯葉剤は薄めて除草剤として使われることで人々が受ける印象もその恐ろしさを薄めてしまうが(逆に言えば、除草剤の恐ろしさに気づくべきだろう)、太陽エネルギーを生命のエネルギーに変換できる唯一の存在である植物を殺すものとして、枯葉剤の罪は大きい。「兵士が亡くなっても草が生えるかぎり、つぎの世代の人間たちは生きる基盤を得る。しかし、夏草も土壌微生物も同様に死に絶えてしまった場所は、もはや跡さえも残らない。そんな植物さえも死に絶える生命全般の根源的な死を、私たちの時代は経験したのである」。

本書はウェブ連載をまとめたもので、まだ試論というか、ラフスケッチといった趣の本になっている。でも、植物という視点からものを見るとき、今まで自分が見ていたものがまったく違う見え方をする、そんな刺激的な指摘がそこここに散りばめられている。近年の社会科学全体が、ヨーロッパ中心、あるいは特権的な人間中心に発達し、その外側に想像力が及ばなかったことへの反省から変化してきている、そんな潮流に属するのだろう。いずれ本格的な人文学の植物論が生まれることを楽しみにしたい。(山崎幸雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索