10の国旗の下で【エドガルス・カッタイス】

10の国旗の下で


書籍名 10の国旗の下で
著者名 エドガルス・カッタイス
出版社 作品社(285p)
発刊日 2024.12.06
希望小売価格 3,190円
書評日ほか 2025.03.16/黒沢 歩 訳
10の国旗の下で

著者は1923年にラトヴィア人の両親のもと満州で生まれ、ハルビンで育ち、学び、働いてきた。YMCA(中学)から北満学院(非日本人対象の高等教育機関)に進学、日本語、ロシア語、中国語に精通したことから、卒業後は満州国教科書編纂、ソ連領事館通訳・情報収集、ハルビン工業大学での教員を経て1955年にラトヴィアに帰国している。この32年間に著者の視線に10カ国の国旗がはためくという支配者の変遷の下で繰り広げられれたハルビンでの生活と仕事の日々を綴った一冊だ。大袈裟な政治、軍事、経済といった目線からではなく、満州の変化と自らの人生を重ねながらまさに自分史として体験を日記の様に積み上げているのが特徴だ。それだけに日本・ロシア・中国などの国々の戦いと混乱の中で営まれていく庶民の日々の記述はあたかもジグソーパズルの様でもあり、その一片一片を確認しながらの読書になった。

田舎の小集落だったハルビンの都市化は1896年にロシアが満州を直線的に横断してウラジオストックに至る鉄道(東清鉄道)の建設に始まる。ハルビンに鉄道建設拠点を設置してロシア全土から多くの技師を投入するとともに、都市基盤として街路整備や教会、各種学校、大学、劇場などが建設され、商業も活発化していった。1905年に日本が東清鉄道の南満州線の経営権を獲得したことで、ハルビンに日本領事館を設置した後、20ヶ国がハルビンに領事館を設置することで「東洋のパリ」と称される都市となっていった。1930年代には人口50万人規模の大都市になっている。

著者の父親(カーリス・カッタイス)は1904年に帝政ロシア軍の兵士として満州に入ったが機関車技師として1926年にハルビンの東清鉄道に異動した。ここから中華民国旗(#1)が翻っていたハルビンの著者の30年が始まるが、1928年の政変で国民党の蒋介石が制圧して国民党旗(#2)のもとで生活することになる。父親は労働者階級としてはエリートだったこともあり、生活に困ることもなくハルビンの生活を満喫していた様だ。各国の多様な民族が生活していた都市だったが、両親はラトヴィア人であることを大切に考え、ラトヴイア語の新聞を読み、著者にラトヴィア民謡のレコードを聴かせ、ラトヴイア民話を話して聞かせていた。そしてタンスの上にはラトヴィア国旗(#3)が飾られていたという。こうした習慣こそ、著者をして大国の思想に流されることなくラトヴィア人として生き続けることが出来た原点だったことが判る。

1931年にYMCA(中学)に入学。教室はロシア人、中国人、ユダヤ人、ポーランド人、アメリカ人、ドイツ人、朝鮮人、などが机を並べ、まさに民族の坩堝。第一学年の授業はロシア語で、第二学年からは日本語で授業が行われた。宗教はロシア正教だが強制は無く、校舎にはアメリカ国旗(#4)が掲げられ、宗教祝祭日にはロシア国旗(#5)が掲げられた。こうした多文化社会の状況とともに、著者の目に写った日本についての記述に注目してみたい。

1932年2月にハルビンに日本軍が侵攻。日本軍兵士を初めて見た著者の印象を「海の向こうから来た兵隊たちは背は低いが、軍服は立派でしかも腕時計をしてポケットに万年筆をさしていた」とそれまで見てきたロシア軍の兵士との違いを表現している。街には日の丸(#6)が掲げられるとともに五族協和を象徴する満州国旗(#7)が翻り、皇帝溥儀のもと独立満州国建国という仮面の下で14年間の日本の支配がはじまる。ラトヴィアをはじめ西欧民族は五族には入らず、日本の欧米各国への対抗意識が露骨に表れたプロパガンダという事だろう。著者の通う学校もアメリカの管轄から日本のYMCAの管轄に入り日本人キリスト教徒が校長となった。1939年の卒業時には「反共、反ソ作文」の提出が全員に課せられたというのも厳しい思い出として記載している。

一方、著者はハルビンの日本人達はその地域特性に適応していたと見ているのだが、その例として、日本人夫婦が女の子に「花子」と名付けなくなったのは、「花の子供」は中国語で「物乞い」を意味していたからだという話を取りあげ、日本の歌謡曲の「支那の夜」「蘇州夜曲」「上海の花売り娘」などを挙げ中国風の歌がヒットしたことにも注目しているという記述を読むと著者の広い視点に驚かされる。

大学進学に際して、父親はラトヴィアの大学を望んでいたがソ連の侵攻により、ラトヴィアに戻る夢は断たれハルビンの国立北満学院に入学する。学長は日本人の清水三三。1940年2月11日に学院で日本帝国2600年祭が盛大に開催され、その式次第は東京の皇居に最敬礼、満州国皇営に最敬礼、そして日本、満州、ロシアの国歌斉唱という文化のごった煮としか言いようがないようなものだ。著者は「学術的には疑わしい記念日だが、出席を課された生徒達は従うだけ」と語っている様に、正当な疑問を持ちつつも生き永らえる術を使い続ける切ない若者の姿が見える。

1941年12月8日の第二次大戦開戦後も大学で日本語を学びつつ、日本の役人や軍医などにロシア語を教える家庭教師をしており、その時の付き合いが何十年も続くことになったと貴重な出会いを語っている。卒業してからは大学で働き続けたが、この時期書籍を買えるのは日本人に限定するという差別条例が有った。それでも日本人上司が著者の希望を聞いて書籍を買ってくれた。また逆に日本人が統制されていた肉の購入を著者が闇市で買って手に入れるといった相互支援が成り立っていたという。

著者はラトヴィア人という特性を忘れずに、特定のイデオロギーからではなく、ロシア語、中国語、日本語を駆使して多民族・多言語の社会を生き抜いていった。それだけに各国の国家としての思惑も人々の思いも捉えることが出来たのだろう。日本が唱えた「五族協和」は理想のスローガンだったにしても、著者が体験したようにハルビンにおける「多民族共存」は実質的に民族間で機能していたという考え方は負の時代の中でのちょっとした暖かさを感じるエピソードだ。

1945年8月6日は「ソ連が対日本戦に参戦」というニュースが流れ、日ソ中立条約はどうなったのか等と考えている内に8月15日を迎える。著者はソ連軍部から協力を求められて、ソ連軍旗(#8)のもとソ連領事館の報道局で働き始める。満州で発行されている多くの中国語新聞から重要情報をピックアップしてロシア語に訳していくという仕事であった。加えてハルビン工業大学がソ連の支援のもとで再開し、ロシア人学生に対する中国語教育と新設の東洋経済学部のカリキュラム作成にも委員として参加している。中国全土から日本人の引揚が始まり、満州だけでも127万人の日本人が引揚げていった。これを見ながら在満のラトヴィア人達は「いつ、どんな風に私たちの番になるのだろうか」と語り合っていたという時代。

1954年大学で職員を集めた集会では、ソ連領事からソ連への帰国を強く促された。その最後の言葉は「中国に残留を希望する者は中国の今後の動向を判っていない」と断言したと言う。著者も決意を固めて、1955年5月20日ハルビン駅を発ち、ソ連国旗(#9)とラトヴィア国旗(#10)が待つラトヴィアに向けて旅だった。

本書を手にしたときにちょっとした戸惑いを感じたのは、「ハルビン」として本書では記述されていることだ。伊藤博文の暗殺を「ヒルピン事件」と歴史の教科書で習っていたが、この発音の違いはなに?というもの。逆に言えばハルビンについての知識もそれくらいなものだったと痛感させられた。

また、読み終えてみると満州とラトヴィアの共通点に気付く。満州と聞くと日露戦争後の満州国建国や日本の実質的支配や満州鉄道の交通の要諦など日本、ロシア、中国といった国々の政治的・軍事的な10年間程の暗闘の歴史が頭に浮かぶ。これも私自身の満州に関する情報の流れが偏っていたということなのだろう。また、ラトヴィアは近世においてドイツ、ポーランド、スウェーデン、ロシアと支配者が入れ替わりつつ1918年第一次世界大戦で独立。しかし、1940年ソ連に占領され、独ソ戦の結果ドイツが占領。その後再度ソ連に組み入れられ共和国の一つになった後、1990年のソ連の崩壊とともに独立している。

2017年6月にバルト三国を旅した。ラトヴィアではリガをはじめとして文化を堪能した。リガの旧市街はアールヌーボー調の建物が続く一角もあれば、中央市場はドイツのツェッペリン飛行船の格納庫を何棟も移築転用して使われているという歴史が垣間見えてくる。官庁に掲げられた国旗が半旗となっていた。聞いてみると1940年6月22日にロシアによる占領と大量虐殺が行われた日として鎮魂の半旗とのことだった。旅人も時を戻される日に遭遇することもある。そして今、大国たちの思惑に振り回されているウクライナのニュースを見聞きするにつけ、進化の無い人間の無力さを感じさせられる日々だ。(内池正名)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索