書籍名 | されどスウィング |
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著者名 | 相倉久人 |
出版社 | 青土社(256p) |
発刊日 | 2015.07.25 |
希望小売価格 | 2,376円 |
書評日 | 2015.09.22 |
相倉久人が「ジャズは死んだ」と宣言してジャズ評論から撤退したのは1971年のことだった。ジャズ喫茶に通いはしたが、ときどきライブハウスをのぞく程度のジャズ・ファンにすぎなかった僕は、このときの相倉の文章をきちんと読んでいない。でも今から考えると、この「死んだ」という言葉には二つの意味が込められていたように思う。
ひとつは相倉久人が自ら語っているように、「これこそジャズだ」と信じた音楽が死んだということ。象徴的に言えば、1967年にジョン・コルトレーンが亡くなったとき、ジャズは死んだという認識。1940年代のビ・バップ、50年代のハードバップと発展してきたジャズの主流は、60年代になって二つの方向に分解した。ひとつはコルトレーンを代表とする前衛ジャズ。もうひとつは、エレクトリック・サウンドのジャズからフュージョンへという流れ。
相倉久人はジャズに心地よさではなく、音楽の持つ力──彼の言葉を借りれば「表現構造そのものによって励起される人間の本質力──反逆精神・破壊衝動・現状拒否の力」──を求める批評家だったから、当然ながら前衛ジャズを支持した。でもコルトレーンを失った前衛ジャズは先細りし、一部の熱烈なファンはいても、たくさんの人の心を動かす音楽ではなくなっていった。
一方で、フュージョンの方向にもジャズの未来はないという認識が「死んだ」という言葉に込められていただろう(実際、その通りになった)。フュージョンはエレクトリック・サウンドを取り入れた心地よいジャズだけど、ジャズの外側に眼を向ければ1970年代には圧倒的な質と量でロックやソウル・ミュージックが世界を席巻していた。フュージョンはそのなかでは小さな枝にすぎず、大衆音楽としてのジャズも死んだ。
個人的なことを言えば、1970年代前半はアルバート・アイラーやセシル・テイラーといったフリー・ジャズを聴いても白けるばかり、といってチック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーやウェイン・ショーターのウェザー・リポートにも惹かれない。そんな状態だった。
ジャズを聴きはじめたのは1960年代のフリー・ジャズ全盛時代だったので、古いジャズは聴いてない。だから僕のジャズ体験には大きな空洞があった。新しいジャズに興味を持てなくなって、50年代へ、さらに40年代へと、ジャズがいちばん豊穣だった時代に遡ってゆくことによって、はじめてジャズの醍醐味を知ったのだった。
ところで、相倉久人自選集と銘打たれた『されどスウィング』が書店に並ぶか並ばないかというタイミングで相倉の死が報じられた。相倉はこの本ができるのを見届けたそうだから、彼の遺書といっていいのだろう。ここにはジャズ評論をやめて以後、音楽評論活動を再開してからのエッセーが収められている。
この本で相倉は、ジャズやロックやJポップスといったジャンルを超えて彼が愛した個々のミュージシャン(バンド)について語っている。細野晴臣、サディスティック・ミカ・バンド、上々颱風、町田康、サザンオールスターズ、吉田拓郎、浅川マキ、もちろんジャズの山下洋輔や菊地成孔もいる。
相倉の好みははっきりしていて、それぞれに彼らしい見方をしているけれど、やはりジャズについて語ったり回想したりしたパートが興味深かった。例えば「たかが〇秒一、されど〇秒一」というエッセーは、「スウィングとはどういうことか?」という難問に答えようとしたもの。
彼はまず、かつてアメリカのジャズメンたちがこの問いにどう答えたのかを紹介している。これが面白い。
「ウィンギー・マノン──同じテンポで演奏していながらテンポが上がってくるように感じること
ジーン・クルーパ──演奏者がまったく自分の霊感のおもむくままにリズムを解釈できるということ
チック・ウェッブ──娘ッ子が好きになってひと荒れあった後で、またその娘と顔を会わすようなもんだよ
エラ・フィッツジェラルド──そうね、エート、スイングってのは、そう、アンタが感じる、その、その、わかんないわ。つまりスイングするのよ」
相倉はウィギー・マノンの「同じテンポで演奏していながらテンポが上がってくるように感じること」という言葉から、「心地よいリズムとは、全員が終始一貫正確に同じタイミングでビートを叩き出すことではない」といい、「テンポが上がってくるように感じる」=高揚感の例として、あえてジャズでなくラヴェルの「ボレロ」を挙げている。
「ボレロ」から連想するジャズの例なら、コルトレーンの名演「マイ・フェイバリット・シングス」だろうか。お馴染みのミュージカル・ナンバーをコルトレーンとピアノのマッコイ・タイナーが繰り返し演奏する。エルビン・ジョーンズの叩きつけるようなドラムがタイナーとコルトレーンを煽る。スティーブ・デイビスのベースがリズムを刻む。同じメロディが何度も何度も少しずつ変化しながら執拗に繰り返されることから、音の内側から魂に触れるものが盛り上がってくる。それを演奏者も、聞く者も感じ取っている。自然に体が動き、声を発し、叫びだしたくなる。スウィングを感じるときだ。
その瞬間を相倉久人はいかにも彼らしく、こんなふうにクールに分析する。
「心地よいリズムというのは、演奏している者同士の間にかならずといっていいほど、リズミックな『ゆらぎ』がある。潜在的なビートとして流れる基礎リズムにたいして、自分が一瞬浮いているように感じる瞬間もあれば、後追いで遅れ気味について行っている瞬間もある。
その出たり引っ込んだりの時幅は、〇秒一か二を超えることは少ない。それでいて自分が前に出ているときは他のメンバーたちのリズムが聞こえず、引っ込んだ瞬間にそれが現われる。そうした『ゆらぎ』が生む独特の浮遊感こそ、スウィングの正体なのだ。まさに『たかが〇秒一、されど〇秒一』である」
演奏する側でなく、かといって純粋に聞く側でもなく、ライブハウスのプロデューサーや司会者として、音楽とは演奏者とリスナーが共振する「場」に成り立つという立場から、両者を橋渡しするのが自分の役割と語った相倉久人らしい表現だと思う。これを一言でいえば、彼がリズムの正確さを求めるあるミュージシャンに言った「耳で聞いて、頭で数えようとするからダメなんだよ。腰で聴いて、からだ全体でのらなくちゃ」と言うことになろうか。
ほかにも山下洋輔トリオの理想的な聴き方──左足でピアノのリズムを追い、右手をドラムのスティックの動きに合わせ、あごでサックスのうねりを追う──なんてのもある。今度、彼のニューヨーク・トリオでやってみよう。
相倉久人の姿を初めて見たのは1970年か71年。新宿ピット・インで山下洋輔トリオのライブだった。このときは司会でなく客席だったけれど、著書『ジャズからの挨拶』のカバー写真が表裏とも相倉の顔のアップだったので(大胆というか、手抜きというか)、ああ、相倉久人がいるなと思ったのを覚えている。
それから何度かコンサートの司会者として見かけたけれど、最後になったのは2009年、日比谷の野外音楽堂で開かれた「山下洋輔トリオ復活祭」。このコンサートで相倉は久方ぶりに司会を務めていた。シャイな相倉らしく余計なことは言わず、「皆さん、山下洋輔です!」と何百回と繰り返したろうコールで会場をわかせた。このコンサートは途中で激しいにわか雨に見舞われ、その後、客席背後の空に虹がかかった。相倉は空を見上げて「虹です」と短く言い、聴衆は皆かつて山下トリオに在籍した故武田和命を思い浮かべたけれど、今にして思えばあれは相倉久人を送る虹でもあった。(山崎幸雄)
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