書籍名 | 自由を考える |
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著者名 | 東浩紀・大澤真幸(山本光伸訳) |
出版社 | NHKブックス(264p) |
発刊日 | 2003.4.30 |
希望小売価格 | 1020円 |
書評日等 | - |
いま僕たちはどんな時代を生きているのか? そんなことを考えるために、定点観測をするように読みつづけている何人かの書き手がいる。吉本隆明のように、30年以上つきあってきた著者もいるし(最近の老いと病をめぐる著作は、かつてとは別の意味で時代の深いところに届いている)、途中でつきあうのを止めてしまった著者もいる。
要するに、面白いから読みつづけているのだし、つまらないから止めてしまったのだが……。東浩紀は、そんなふうにして読みつづけている数人の書き手のうち、いちばん若い1971年生まれの学者、批評家だ。
哲学畑の出身で、時に現代思想系のむずかしい文章を書くけれど、アニメの「エヴァンゲリオン」やゲームなどのサブカルチャーを取りあげたりもするから、「エヴァンゲリオン」ファンの、うちの娘なんかも読んでいるらしい。2年前に出た「動物化するポストモダン」(講談社現代新書)は「オタクから見た日本社会」(サブタイトル)を論じて、なんとも刺激的な一冊だった。
この本は社会学者である大澤と、サブタイトルにあるように「9・11以降の現代思想」を語り合った対談。ほぼ同時期に、ミステリー作家・批評家である笠井潔との対談「動物化する世界の中で」(集英社新書)も出ていて、こちらは親子ほどに歳の差がある二人のすれ違いと対立がそれなりに面白かったけれど、内容では「自由を考える」のほうが断然濃い。
そこで、この本で語られていることを、東浩紀の発言を中心に僕なりに整理してみることにした。
いまは「環境管理型権力」の時代なのだ、と東はまず語りはじめる。言いかえれば、国家や構成員のセキュリティーを最大の関心事として、コンピュータの技術革新に支えられながら、個人情報を管理することで秩序を維持しようとする社会がやってきた。
かつて人々は、神とか国家とか人類とか民族とかの「大きな物語」を信じることができた。そういう「大きな物語」を共有できた時代の権力は、学校や軍隊を通じてひとりひとりの内面に共通の規律や規範を植えつけることによって人々をコントロールした(このあたりはリオタールやフーコーを踏襲)。
ところが「大きな物語」を誰もが信じられなくなったいま(ポストモダンの時代、ということね)、権力は人々が内面でどんな思想やイデオロギーを持っていようとも関心を示さない。多様な価値観や文化を認めながら、一方で、家畜を管理するように人間を管理する時代がやってこようとしている。
「家畜を管理するように」ということを、東は「マクドナルドのイス」を例にあげて説明している。客の回転を早めるために、マクドナルドはイスを硬くした。イスを硬くすれば、客は長時間そこに座ってはいられない。「30分以上座らないでください」と禁止するのではなく、30分以上座っていると尻が痛くなってしまうという「動物的な限界」を利用して消費者を管理している。
禁止されたり命令されたりではなく、自発的にそのような行動を取ってしまう(ように見える)管理の手法が、社会の隅々にまで浸透しはじめている。禁止や命令があれば、人々はその意味を考え、時には桎梏から自由になろうと反抗する。ところが管理する側にとって都合のよい環境をあらかじめ与えてしまえば、人々はその環境のなかでしか考えられないし、行動できないから、与えられた環境に疑問を持つこともない。
そのような管理のネットワークを支えているのは、「個人認証のシステム」だ。そこでは膨大な個人情報があちこちに蓄積され、自分ではコントロールできない状態で利用されてしまう。その代表的な例は国が導入しようとして果たせない国民総背番号や、今年から導入された住基ネットだろう。でも、問題はもっと大きく複雑だ。「あなたは誰々ですね」と個人を確認できるシステムが、社会全体に広がっている。
例えば、僕たちの日々の行動が、どんなふうにこのシステムで捕捉されているかを挙げてみよう。
こうした情報は、すべてそれぞれの場所に記録として蓄積されている。つまり僕たちの日々の行動は、誰かが捕捉しようと思えば、裸にされるように分かってしまうのだ。「匿名掲示板や出会い系サイトの登場で匿名性への恐怖があおられているが、携帯やネットは位置情報や通話記録、アクセスログが残るのだから、かつてなく非匿名的な媒体だ」と東は言う。
実際、アメリカはエシュロン(人工衛星を使った通信傍受システム)やカーニボー(上流プロバイダーに設置するメール傍受システム)を使って世界中の通信に目を光らせている。たわむれに「アラー」とか「爆弾」とかの言葉を使ってメールを送れば、たちどころにアメリカ政府にチェックされてしまうだろう。
この国で、こうした個人認証のシステムはいま、「市民の安全を守る」ために犯罪捜査に使われている。12歳の少年による4歳児誘拐殺人や一家4人が殺され海に捨てられた事件では監視カメラが登場した。携帯の着信記録から犯人が割りだされる事件は、最近では珍しくもない。
「近い将来、監視カメラと携帯電話の個人認証か何かを組み合わせて、歓楽街に中高生が入ると自動的に近くの交番に連絡が行くとか、そういうシステムがつくられていくと思います。これが今の時代の気持ち悪さです。僕たちは、いつどこへ行っても匿名になれない社会をつくろうとしている」
問題は、「個人認証のシステム」の広がりに反対できないことだ。国や自治体が進める国民総背番号や住基ネットには「プライバシーを侵害する」という古典的な理由で反対することはできる。でも、携帯やメールや自動改札やクレジットカードに反対の理由を見つけることはむずかしい。セキュリティーを守るための監視カメラは、市民が自発的に設置している。「それは消費社会のサービスの充実にも使えるし、治安維持にも使える」のだ。
「個人認証のシステム」は、僕たちから何を奪っているのか。このシステムは犯罪を犯さない限りは自分たちの安全を守り、便利なツールとして機能している。だから、そこで奪われているものをあえて言葉にすれば、「犯罪を犯す権利」とでも言うしかない。でもそれでは反対の理由として、他人を説得できない。
とはいえ、いまのような「セキュリティーの権力」の広がりに、直感的にヤバイと感じている人は多い。その直感や不安には根拠があり、それはまだ名づけられていない何ものかが奪われているからこそ不安なのだ、と考えることができる。
そこで必要なのは「概念の発見」なのだ、と東は強調している。例えば、労働者が働いて賃金を得る。この一見当たり前のことのなかに、マルクスは「疎外」という概念を持ちこんで、資本主義が利潤を生みだす構造を取りだしてみせた。同じように、新しい概念を発見することによって、いま進行している未知の事態の構造をつかみだせるのではないか。
東はそのための一歩として、まだ概念として弱いけれどもと言いつつ、「匿名の自由」という言葉を提出している。抽象度の高い議論なので簡単に要約できないけれど、こんなことだろうか。
友人と並んで歩いているところに暴走車が突っ込んで友人が死んでしまった(これは東の議論をもとに僕が考えた例)。友人が車道側を歩いていたのは偶然で、自分が車道側を歩いていてもおかしくなかったのだから、車にはねられて死んだのは自分だったかもしれない。
そのように自分は他者であったかもしれないし、いつ他者になってしまうかもしれない。他者の運命が自分の運命であったかもしれないという、私が誰かと交換可能な存在であるときにはじめて、他者(この場合は友人)への共感が生まれる。
そして自分が誰かと交換可能な存在であることをもっとも強く意識できるのは、群衆につつまれて町を歩いているときのような、自分が匿名的な存在であるときだ。逆に言えば、いたるところで情報ネットワークが「あなたは誰々ですね」と個人認証する社会は、そのような交換の可能性を、「匿名の自由」を、ひいては他人への共感を奪ってしまう。
うまく整理できた自信はないから、このあたりの議論に興味がある人は、本を読んでください。いずれにしても、この国のストリートでいま進行している事態と哲学の言葉を結びつけようとする東の態度は一貫している。言いかえれば現実からの刺激を受信して言葉を鍛え、逆に言葉によって現実に働きかけたいという、まっとうな、しかし困難な仕事を目ざす姿勢は今どきめずらしい。
対談の相手、大澤真幸の議論にはまったく触れられなかった。理由のひとつは、議論の抽象度が東よりさらに高く、理解できたかどうか自信がないこと。もうひとつ、東の著書はだいたい読んでいるけれど、大澤のは読んだことがなく、議論のバックグラウンドがわからないこと。要するにこちらの力不足。
でも、互いに理解しつつも主張しあい、本人たちも言っているように、とてもうまくいった対談だと思う。途中で二人とも「スタートレック」にはまったことがあるのがわかり、そちらに延々と話がそれたり、エンタテインメントとしても楽しめる。(雄)
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