人事と権力【軽部謙介】

人事と権力


書籍名 人事と権力
著者名 軽部謙介
出版社 岩波書店(307p)
発刊日 2024.07.26
希望小売価格 2,750円
書評日 2024.12.17
人事と権力

著者の軽部謙介は1955年生まれ。時事通信で経済部、ワシントン支局長、ニューヨーク総局長を歴任したジャーナリスト。長い職歴の中で数多くの取材をしてきたのだろうが、「政策的な質問には応じてくれる人達が人事となると口が重くなる」という著者の感覚も良く判る。本書ではオンレコを前提とした取材に基づき、ファクトファインディングで書きたいことを書いたと言っているように、人事に絡むプロセスと人間関係を浮き出させている一冊である。

日本銀行が舞台の本書だが、1990年代から2023年の植田総裁就任までの約30年間を俯瞰している。今更ながら気付かされるのは歴代の内閣総理大臣と日銀総裁の名前・就任時期などを正確に覚えている訳もなく、歴代の総理大臣とその補佐役、日銀総裁・副総裁の就任時期を一表のメモにして確認しながら読み進んだ。

1990年代後半は、バブルの崩壊、金融機関の経営破たん、接待スキャンダルなどが噴出して大蔵省に対する批判が高まった頃で、同時期に旧日本銀行法改正の議論が進んでいた。

私は当時IT会社に勤務して2000年問題対応に振り回されていたこともあり、金融機関の経営破たんなどは明確に覚えているが、新日銀法の議論についてはほとんど記憶になく、本書を読みながら勉強したというのが実情だ。本書の膨大なファクトから私なりに重要な論点を以下、取り上げてみたい。

旧日本銀行法は1942年に施行された戦時立法で、大蔵省が持っていた日銀に対する、業務指揮権、理事任命権などの権限を規定していたが、新日銀法では、それを排除して日銀の独立性を確保するとともに、内閣による任命と国会の同意対象を、旧法の総裁・副総裁に加えて金融政策委員会を構成する審議委員についても国会の同意を必要とするという新たなチェックアンドバランスを図っている。また、この審議委員について、旧日銀法では政策委員と呼ばれ4名で構成され、二名は「地方銀行」と「都市銀行」出身者から選び、後の二名は「商業及び工業」と「農業」に対し識見を持つ者としていた。一方、新日銀法では審議委員は「経済・金融に高い見識を有するもの」とだけ定義された。こうした日銀法の変化とともに、諸問題が噴出した大蔵省への逆風が重要なポイントになった。

1998年には新日銀法のもと、橋本龍太郎内閣が大蔵省・日銀が推薦した日銀出身の速水優を総裁に任命した。こうして、新たに独立した日銀は大蔵省との連携も薄くなり、直接政治プレッシャーを受け続けることになった。速水は「辞めたい」「疲れた」と心情を周りに漏らしていたとのこと。政治から見ると「云う事を聞かない日銀」というイメージが定着して、後の総裁人事介入に結びついたと軽部は見ている。

2003年の後任総裁について速水は時の小泉首相に福井敏彦を推している。小泉が福井と極秘に会って日銀総裁就任を打診した時の言葉は「やあ、よろしく」の一言だったという。まさに「エリート主義」というか、政治家にとっては小難しい金融政策に関与しても票に繋がらないし、利権も発生しないという時代が見えて来る会話である。

そして、波乱の時代に入って行く。2008年の次期総裁選定は、福田康雄首相のもと参議院ではねじれが生じていた時代。野党民主党の小沢一郎は今までの日銀総裁の経歴が偏っているとして、福田内閣の任命した財務省出身の武藤敏郎の日銀総裁案を参議院で不同意となった。3月19日に福井の任期は切れ、急遽、政府は副総裁の白川方明を急遽日銀総裁に任命出来たのは4月9日。日銀総裁が20日間空席となる異常事態となった。これは日銀総裁人事が政争の具になったのか、国会のチェックアンドバランス機能が果たされたのかのどちらかであるが、当時のメディア、例えば、朝日新聞は「小沢民主党の不同意理由は合理的でなく、意味不明」としているなど、政争の具になったのではとの見方が強かった。

野田内閣が2012年12月に解散総選挙に打って出たものの、安倍が選挙公約に「大胆な金融緩和」を掲げて首相に返り咲いた。安倍の意を受けた内閣官房参与の本田悦朗は2013年に任期が切れる白川総裁の後任候補リストを「大胆な金融緩和」を指示している黒田東彦などリフレ派中心に作った。後に安倍は「私が野党の責任者として金融緩和を掲げ、マスコミや経済学者から批判されていた時に、黒田さんは私の政策を評価していた」と語っている。戦後与党の領袖たちは日銀総裁について問われると「見識」とか「調整力」といった抽象的な条件を語っていたが、日銀総裁の条件として時の首相と同じ考え方を持っていることと断言したのは安倍が初めてである。

また、政策委員会の審議員の選任においても、経済・金融に高い見識を有するものという定義に基づき安倍は「アベノミックスを推進してくれる人」、「産業界・金融界という枠をなくす」という考え方で委員を選好して行く。しかし、黒田総裁の10年間で言えば、選ばれた本人がリフレ派との認識が無かったり、「リフレ派的」な人だったりもしたこともあり、2019年の「消費税引き上げ」の決議ではリフレ派間の亀裂も明らかになった。

2022年に政権は岸田に変わり、総裁の任命が2023年にある。岸田は黒田の後任人事では財務省や日銀を関与させずに選任を進めた。その意味では二代続けて政治任命だった。黒田は岸田に対して日銀出身の雨宮副総裁を後任に推した。しかし、雨宮自身は「黒田体制の10年間だけでなく、1998年からの新日銀法施行移行の金融政策を検証すべき時期にあることから自分はそのほとんどの期間に関与してきたので、中立的な立場から主宰する任には相応しくない」ことと「学者の起用に道を開く」ことを主張していたのは真っ当な意見だと思う。また、各国中央銀行総裁の多くは経済学博士号を持ち、難解な金融テーマを時には直接電話で語り合うという時代になっていることも強く感じていたことから、雨宮は「20年間の論点をフレッシュな目で見る」「理論と実務の判る人」「グローバルスタンダードに合わせてアカデミズムにも道を開く」といった観点から、東大教授で速水総裁時代の審議委員の経験もあった植田和男を次期日銀総裁に推した。ただ、岸田にとってはこうした条件よりも、安倍ではなく岸田が決めたという姿勢が重要だった。

こうしてみると、同じ政治任命でも安倍と岸田の選考プロセスは異なっている。安倍は自らの政策に賛成する人材から選び、側近の声は聴くがそれ以外の声は無視した。そして安倍は自ら小泉内閣の官房長時代を回想して「小泉総裁と私、日銀の福井総裁と武藤副総裁の4人で会い、そこで私から福井総裁にもうしばらく量的緩和を続けてもらえないかと話をしたが、日銀は量的緩和を解除した。」と恨み節を語っていたという。この話の延長線上に黒田総裁任命時の「人事による政策誘導」があったのではと軽部は指摘している。一方、岸田は特定の経済政策が前面に出ることは無く、財務省や日銀の推す雨宮ではなく、植田を黒田の後任に選んでいる。

こうした日銀総裁選定プロセスを見ていると、今後も財務省がその決定主体に戻ることはないだろうと思われる。従って、日銀自身も政治の介入に対するリスク感はもっと研ぎ澄ませておくべきで、政治に対して付け入るスキを与えないような日銀の「政治力」も必要になるのではないかという著者の警鐘は納得がいく。

いずれにしても、日本銀行の運営は多様な視点を持って行われるべきであるし、中央銀行としての見識と倫理観が要求されると言う意味でも特殊な組織体であると思う。

私の日本銀行との付き合いはコンピューターメーカー在職中に、1980年代前半の2年間は日本橋本石町の日銀本店のコンピーター部門の企画課に常駐して行員の皆さんと机を並べて仕事をしていた。とはいえ、本書のような政治と経営に関わる話に接することもなくシステム開発と安定運用に邁進していた。ただ、日銀の組織風土とか組織運営の特徴はそれまで経験した都市銀行とは違った文化を感じてはいた。一言でいえば真面目だし、入行年次による序列の徹底、若い時から選定された行員育成などである。ただ、日銀担当になって日銀の管理者の方に挨拶に言ったとき、「当行では日本の歴史上の人物を話題にしないように」と言われた。怪訝な顔をしていたら「歴史上の人物の子孫が沢山いるから注意して」とのこと。さすが日銀と思い知らされたことも懐かしい。(内池正名)

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