千本組始末記【柏木隆法】

千本組始末記


書籍名 千本組始末記
著者名 柏木隆法
出版社 平凡社(528p)
発刊日 2013.10.23
希望小売価格

3,990円

書評日 2013.10.23
千本組始末記

映画は19世紀末に発明されて以来、見世物として世界中の小屋や劇場で上映されてきた。日本でもパリやニューヨークとほぼ同時に神戸や京都で上映されている。映画は娯楽や芸術であると同時に最初から産業であり、興行でもあった。そしてこの国の場合、興行はやくざと切っても切れない縁を持つ。特に草創期の映画界では、やくざの人脈はロケの警護といった力の行使だけでなく、製作会社本体に資金提供者やプロデューサー、あるいはスタッフとして入りこんでいた。

この本の主人公・笹井末三郎は京都のやくざ千本組に生まれ、青年期にアナキストとなった。末三郎の周辺にはアナキストとやくざが入り乱れ、東京と並ぶ映画産業の地、京都の映画製作現場にかかわってゆく。本書はそんな草創期日本映画の隠れた歴史を綿密な取材で明らかにしている。これを読むと、アナキストとやくざが絡んでつくられた日本映画の系譜は、僕らが若い頃見た東映やくざ映画にまで遥かにこだましているように見える。面白い本だった。

笹井末三郎は1901(明治34)年、京都千本三条で千本組を率いる笹井三左衛門の三男として生まれた。千本組は丹波の材木を京都まで筏を組んで運ぶ人夫を束ねて運送業・土木業を営む「かたぎやくざ」で、町内の自警団や消防団の役割も兼ね、祭礼も取り仕切っていた。

三左衛門の死後、千本組は長男・静一が跡を継ぐ。詩を書いていた文学青年の末三郎は組に居候したアナキスト画家・久板卯之助らの影響でアナキズムに傾斜していった。やがてアナキスト団体や労働運動にも関係するようになり、警察の取調べを受けたこともある。大杉栄とも知り合った。当時、京都にはアナキストといっても不良少年と区別がつかないグループがあった。若き日のマキノ雅弘監督や後の大映社長・永田雅一もその一員だったという。末三郎は彼らの兄貴分に当たる。その後、末三郎は大杉栄虐殺の報復を計画するアナキストと交友を結び、彼らの生活の面倒を見たりもしている。一方、千本組で末三郎は「石炭部」を任されて20人ほどの子分を従え、彼らや不良少年を集めて「血桜団」を結成する。

大正末、亀岡の河川工事をめぐるトラブルから千本組は亀岡の組と河原で決闘することになった。末三郎は現場の総大将となり、千本組、血桜団だけでなくアナキストの友人たちも助っ人として馳せ参じている。この喧嘩で末三郎は日本刀で相手を負傷させ、懲役1年の刑を受けた。

このころ、ロシア革命の影響もあって社会運動の主導権はアナキストからマルクス主義者へと移りつつあった。アナキストは「リャク(掠)」と呼ばれる恐喝まがいの行為や博打で資金を得ることもあり、そのためアウトローの世界とは親近性があった。「一般社会では毛嫌いされていたアナキストは、アウトローの世界ではきっぷのいい渡世人のように一目おかれていたようである。博打ばかりでなく、警察の拷問にもひたすら耐え抜く強固な精神力に敬意を払いこそすれ敵意を抱く者は少なかった。世に受け入れられぬ者同士の連帯感とでもいえる感情であろう」

刑期を終えた末三郎はアナキズムの運動から身を引いたが、アナキストの友人との交友はつづいた(東映やくざ映画生みの親・俊藤浩滋プロデューサーは「戦後も生粋のアナキストでした」と語っている)。出所した末三郎には定職が必要だったので、日活の物品検定所長というポストが用意された。もともと父・三左衛門の時代から千本組は日活のロケを警護し、大道具用材を納入し、工事を請け負うといった関係があって、日活に対して影響力を持っていた。また役者や映画関係者は笹井静一が経営する旅館を定宿にしていた。

やがて末三郎は日活企画部に移り、庶務課の用心棒を束ねたり、ロケのマネージャーをやっていたようだ。溝口健二監督の『東京行進曲』には役者として一度だけ出演してもいる。アナキスト仲間の近藤茂雄は末三郎の紹介で日活に入社した。彼は神戸光の名前で役者として喜劇映画に出るようになり、田坂具隆監督の『しゃぼん娘』では準主役級を演じて人気を得ている。チンピラだった永田雅一も入社し、やがて出世の階段を昇ってゆく。日活は「プロレタリア映画の先鞭もつければ軍国美談も数多く撮り、アナキストに対して右翼黒龍会員、マルクス主義者もいれば労働争議に殴りこみをかけるチンピラやくざまで奇妙に同居していた映画会社なのである」。

その後、親しかった撮影所長の退陣を機に日活を辞めた末三郎は、太秦に開設されたマキノトーキー撮影所に理事として名を連ねる。所長はマキノ雅弘(当時は正博)。俳優として月形龍之介、沢村國太郎らを擁していた。アナキスト詩人・岡本潤も末三郎のツテで脚本家として入社した。末三郎もまた脚本に興味を示し、変名で映画のアイディアを出している。もっともマキノトーキーでつくられた映画は「荒唐無稽な娯楽作品ばかりで粗製乱造の謗は免れない。おまけに、直営館を持たないために興行は場末の映画館の穴埋めみたいな公開しかできなかった。このころ末三郎は博打に手を出すようになっていた」。

末三郎が博打を打つようになったのは、資金繰りに追われていたためでもある。もともとマキノトーキーの資金は、大部分が笹井一族によって賄われていたようだ。しかし上のような事情で経営は悪化し、給料の遅配がつづいて俳優が次々に辞めていった。やがて末三郎は借金取りに追われて京都を離れ、東京へ姿をくらます。

次に末三郎の行動が確認されるのは戦争中、満映理事長・甘粕正彦の誘いで満洲へ渡ったことである。甘粕は末三郎と親交のあった大杉栄虐殺の犯人とされた人物。著者の柏木は、牧野満男(雅弘の弟)が連れてきた甘粕のブレーン清野某と末三郎とのこんな会話を記録している。
「いくら満男の頼みでも、満映だけは嫌や、わし、甘粕なんぞ会いたくもないわ。会うたら殺すかも知れへんど」
「牧野さん、(末三郎は)あなたのいっていた通りの人ですな。理事長は俺を殺すといったら連れてこい、喜んでついてくるといったらこの話はなかったことにしろと私は命じられております」

結局、末三郎は満映に協力することになった。彼は「日本で職を失った左翼系の監督や俳優をどんどん送り込んだ。それでも指名手配中の人物となると甘粕といえども難色を示したようで、そうなると末三郎から甘粕に宛てて『あなたには、アナキストたちの面倒をみる義務がある』という主旨の速達が何度も送られたという」。

戦後、千本組を率いた兄の静一が死に、末三郎は三代目襲名を期待されたが継ぐことをせず、千本組は自然消滅した。一方、牧野満男を撮影所長に東横映画(後の東映)が創立され、末三郎はここにも資金援助していた。東横映画には元満映理事もかかわっていたから、満映にいた映画人は満洲から帰国すると続々東横に入社した。帰国時期は遅かったが内田吐夢もその一人である。ちなみにレッドパージの際、牧野満男(マキノ光雄)は「東横には共産党員はひとりもいない。わしは大日本映画党だ」と居直って犠牲者をひとりも出さなかった。

東横が東映になった後、東映と縁を切った末三郎は日本電映社(後の日本電波映画)を設立し、マキノ雅弘監督の時代劇やテレビドラマを製作している。その日本電波映画も1967年に倒産し、末三郎はその2年後に亡くなった。最後までアナキスト仲間との交友はつづいていたという。

草創期の日本映画についてはマキノ雅弘の自伝『映画渡世』、嵐寛寿郎の聞き書き『鞍馬天狗のおじさんは』といっためちゃくちゃ面白い本があるけれど、これは更にその背後を掘り起こした日本映画裏面史になっているのが興味深い。大正から昭和初期にかけて、まだ産業として確立していない映画界にはアナキスト、マルクス主義者、右翼、やくざといったアウトサイダーがうごめいていた。その混沌としたエネルギーが、直接にも間接にもそこでつくられた映画に反映しないはずがない。

僕が東映映画を見るようになったのは、同世代がたいていそうであるように1950年代の『新諸国物語・笛吹き童子』『紅孔雀』といった子供向け映画からだ。そこから『丹下左膳』や『多羅尾伴内』シリーズ、中村錦之助の股旅ものなんかを見ながら、まだそういう言葉は知らなかったけど子供心にある種のニヒリズムと反骨精神を感じとっていた。その印象は、後に生まれる任侠路線によっていよいよ強くなる。この本はその根っ子がどこにあったかを明らかにしてくれる。

松竹(大谷一族)、東宝(阪急)といった由緒正しい資本をバックにした映画会社と違って、戦後の日活や大映、東映には戦前の映画会社が持っていた出鱈目ではあるが生き生きした活力と同質のものが会社自体にも、そこでつくられる映画にも漂っていた。僕が一貫して見ていた東映でいえば、加藤泰や深作欣二の映画にそうした日本映画草創期のエネルギーと情念が継承されていたのを感じる。その源のひとつに笹井末三郎という男がいたことを記憶しておきたい。(雄)

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