書籍名 | 消費される階級 |
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著者名 | 酒井順子 |
出版社 | 集英社(264p) |
発刊日 | 2024.06.26 |
希望小売価格 | 1,870円 |
書評日 | 2024.11.18 |
昨今、メディアでは差別を表現・助長するような言葉は排除されているが、依然として我々が日常的に感じる格差や差別は各所に見て取れる。そうした事柄に対する時代毎の変化や社会状況との関係など多様な観点を取り上げて著者は語っている。そもそも生物はサル山やライオンの群れなどに見られるように序列をつけて生きている。それは生き抜くための知恵でもあることから、それに対して「全ての人間が横並びで生きる」ことの難しさについても指摘している。
振り返ってみれば、日本は明治維新とともに近代国家を目指したものの徹底した差別社会であった。帝国議会には貴族、高額納税者など選挙で選ばれない議員で構成される貴族院があったし、女性の投票権行使も昭和21年4月の衆議院議員選挙からである。そして、戦後における復興と民主主義の定着とともに経済も成長する中、一億総中流社会と言われたように社会制度だけでなく経済力の格差も小さくなっていった。
しかし、バブル崩壊後は国民間の「経済的な上下差」が広がった結果、「ストレス発散させるために、他人を下に見る行為」が広がり、2006年の流行語大賞として「格差社会」という言葉がトップテン入りしたことに繋がっていると著者は見ている。
本書では、こうした日本の格差社会の変遷を前提に、男女格差、地域格差、親ガチャ・経済力、年齢、美醜(見た目)など、多様な格差・差別について取り上げている。著者は私より20才近く若いし、男女の違いもあるからだろうか、格差に対する意識の相違が以外と多くある事も判り、それはそれで異なった視点からの物の捉え方の面白さを味わうことが出来た。興味深かった幾つかの点を挙げてみたい。
差別議論の最大のポイントである伝統的な男女差についての意識と現代の変化に言及している。1970年代になると大学を卒業した女性の多くは就職するとともに、結婚で退職する人も少なくなった。結果、妻は夫に依存するのではなく、対等ともいえる状況になって来たことは私の職場環境の中でも実感していた。1980年代バブル期には学歴・収入・身長の高さ(三高)で女性は結婚相手を選ぶという言葉が流行った。私はこの言葉は世の中の平均より高いといった意味と理解していたが、著者は「女性にとって自分より学歴・収入・身長の高い男を望む」という自分との比較意識もあったという見方をしている。加えて、著者が指摘する「妻のキャリアに嫉妬する夫」などという言葉を聞くと夫婦の関係そのものも私には理解出来なくなってくる。夫婦とは性別による役割分担を持った連携チームで相手が頑張ってくれれば感謝すると考えている自分の感覚は古いのかと驚いてしまう。
有名人を有名人たらしめるのは無名人からの視線である。江戸時代は歌舞伎役者でも舞台では化粧した役者だし、錦絵でも似顔絵だから、役者本人が素顔で町に出ても見つかる事は無かった。明治になり写真が掲載された新聞が人の手に届くようになって有名人の名前と顔が一致するようになる。戦後ともなれば、テレビ・新聞・週刊誌などの膨大な情報量により有名人が一気に増加した。特に皇室のメディアへの露出は大きく変化した。1959年の当時の明仁皇太子と美智子妃との結婚に際しては、発刊されたばかりの女性週刊誌が膨大な記事を掲載した。以降、現在の秋篠宮家のバタバタに至るまで皇室は女性週刊誌の最重要ネタとしてだけでなく一般メディアでも「消費」され続けていく。社会の平等化の進展だけでなく、皇族の意識も変化する中で皇室典範において男女格差が冷凍保存されていることから、著者は「差別のショーケース」と言っている。皇室を仰ぎ見る一方、皇室内の差別は世間の感覚からは乖離しつつある。そんなことから皇室を存続させるのであれば、そろそろそのズレを修正する時が来ているという意見ももっともだと思う。
「ドラえもん」のメインキャラクターのジャイアンは「力」を、裕福な家庭のスネ夫は「金」を、のび太は「力」も「金」も会話力もあるわけではないがドラえもんが出してくる様々な道具に助けられている子供として子供社会における格差要因を表現していると見ている。ただ、子供が瞠目するのは足が速いといった「力」だったり、新しいゲームをすぐに買ってもらえる「金」の威力である。そして大人になるとそのヒエラルキーは激変して、「力」ではなっていく。
一般的には賢い人(頭が良い・コミュニケーション能力が高い)が、そうでない人の上に立つことで社会は進化して行く。ただ、動物界において人間の能力が高いが故に動物園で動物達を隔離・鑑賞するとともに、動物達を殺して食べている。いつの日か人間よりずっと賢い宇宙人が地球にやって来たら人間は見世物にされる側になる。それを覚悟しているかどうかという著者の問い掛けは鋭い。
ルッキズムに関して「一重まぶたの扱いの日韓の差」という提起は全く想定外であった。韓国のドラマでは一重まぶたの女優が重用されているという。自然な切れ長一重のストレートの黒髪がアジアンビューティーの感覚として世界進出を推進し、中途半端な欧米化(二重まぶた化)をしなかった。一方、日本のテレビの女性アナウンサーは二重まぶた、やせ形の美しい顔ばかりである。一重まぶたの女性は居ない。唯一の例外がNHK出身の有働アナウンサーという。一方男性アナウンサーは一重・二重の混在。この傾向は芸能界でも同じ。この状況を著者は日本の欧米への憧れの結果としている。しかし、いまや、欧米のテレビニュースを見ていると女性キャスターやアナウンサーたちは各自のまちまちな体型や容姿で登場しているという。日本もそろそろ「二重まぶた信仰」を手放すべきではないかと著者は言い放つ。こうした欧米志向は1960年代の平凡パンチに代表される若者文化の中で男のファッションで「カッコよさ」を追求していった。TPOに則ったアイビー・ルックに代表されるアメリカ文化への憧れそのものだった。
今や、容姿とは、異性のためでなく、自分をより美しくみせることで快適に生きることを目指していると著者は考えている。昔なら「外見ばかり気にしている」と否定的にとらえられがちだった。
ふと、祖母からの話を思い出した。祖母は中学生の私をつかまえて「『お洒落』は不要だが、『身だしなみ』は整えろ」と説教をした。よほど男子中学生のいい加減な身なりにあきれていたのだろう。つづけて、「お洒落は自分自身のためでしかないので不要です。ただ、身だしなみは周りの人に不快感を与えないためのものだから整えるように」というものだった。祖母は何竿もの箪笥に着物をもっていたので、これは「お洒落じゃないの?」と言い返すと、「全部身だしなみの為です」と言い張っていた。
本書を読んでいても感じるのは、差別とか、格差といった感覚は世代とか年齢による違いではなく、個人差だと思う。私は上下という感覚で捉えるよりも、フラットな感覚で違いを意識していると思う。そんな、我が家は至極古典的夫婦である。私は就職して丸1年、妻は1学年下で3月に卒業して就職することもなく同年の5月に結婚。一年後に娘が生まれる。結婚して53年間、妻は専業主婦である。男は働き、女は家を守り、子を育てるという役割分担の違いはあったものの、そこに立場の上下感はなかった。私の勝手な感想で言えば戦友のようだ。
そして、中年になった頃、妻は「あなたはお金を稼いで来てくれるから大蔵大臣」というので、私が「君は?」と聞くと「総理大臣」と一言。拙宅が例外なのか?(内池正名)
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