書籍名 | すべての月、すべての年 |
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著者名 | ルシア・ベルリン |
出版社 | 講談社(376p) |
発刊日 | 2022.04.20 |
希望小売価格 | 2,640円 |
書評日 | 2022.08.17 |
3年前、本サイトでルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』について書いた。既に亡くなり、生前ほぼ無名だったアメリカ人女性作家の素晴らしい短編集だった。『掃除婦…』は、彼女の死後に出版された同名の作品集に収録された43篇のうち24篇を訳したもの(岸本佐知子訳)。今度出た『すべての月、すべての年』は、残り19篇がやはり岸本によって訳されたものだ。
ルシアの小説は、そのほとんどが自身の体験を素材にしているそうだ。その生涯はまるでこの世の生が二度三度とあったように多彩で、いろんな出来事に満ちている。
1936年にアラスカで生まれ、鉱山技師の父とともにモンタナなどの鉱山町を転々とした。父が第二次大戦で出征すると母・妹とともにエルパソの貧民街にある祖父母の家に移る。祖父も母も叔父もアルコール依存症だった。戦後は青春期にチリに移住し、一転して裕福な生活を送る。やがて帰国し大学在学中に結婚し、2人の子供を産むが離婚。さらに2人のジャズ・ミュージシャンと2度の結婚をして2人の子供を産むが、いずれも離婚。サンフランシスコに住みシングルマザーとして4人の子育てをしながら教師、掃除婦、電話交換手、病院の看護師として働くが、自身もアルコール依存に苦しんだ。そんな生活の中で小説を書き始め、ぽつりぽつりと発表するようになる。アルコール依存を克服してからは刑務所で囚人に創作を教え、90年代には大学の教授になり、68歳で亡くなった。200回くらい引っ越した、と確かどこかの短編に書いていた。
だから彼女の小説は、どの年代どの場所を素材にするかでがらっと色あいが変わる。少女時代の、男の子との初恋。エルパソでの家族をめぐる暗い記憶。チリのお嬢さん生活。3人の夫との愛憎の記憶。看護師として救急救命室で見たさまざまな人生。アルコール依存の日々。
そんなふうに自分を素材にした短編だから、主人公は一人称の「わたし」や三人称の「彼女」と呼ばれることが多い。3年前の『掃除婦…』は文字通りの短篇が多かったから、ほとんどがそうだった。今回の『すべての月、すべての年』は少し趣が違う。短篇とはいえやや長めの小説が何本かあって、主人公が「わたし」でも「彼女」でもない第三者になったり、短篇の結構というより中篇小説ふうなストーリー展開があったりする。そこが面白かった。とはいえ、ハードな語り口、ぶつぎりの文章スタイル、いきなりの断言は、まぎれもなくルシアのもの。その、長めの小説をひとつ覗いてみよう。
例えば「ミヒート」は、オークランドで働くメキシコ青年のもとへやってきた17歳の婚約者、アメリアを主人公にしている。アメリアは、「あたし」という一人称で自分の人生を語る。彼女は結婚し子どもを産んだが、夫は刑務所に入ってしまい、伯父の家に居候している。伯父はアメリアを邪険にして暴力をふるい、レイプし、傷ついたアメリアは泣き止まない赤ん坊を虐待する。英語をしゃべれないアメリアが、具合の悪い赤ん坊を連れて病院にやってくる。赤ん坊はヘルニアで手術が必要だ。けれどアメリアはその予定を二度三度とすっぽかす。作者であるらしい「わたし」は子ども病院の看護師で脇役として登場し、アメリアや、さまざまな事情を抱えた貧しい患者たちを見る。アメリアの「あたし」と作者らしき「わたし」(原文ではどちらも“I”だろうが)の語りを交錯させながら、「わたし」はこう語りだす。
「待合室に出ていくときは、目をちょっと寄り目にする。そして患者さんの名前を呼びながら、母親だか祖母だか里親だかに向かってにっこりするけれど、目はその人たちの額にある第三の目を見る。これは緊急救命室で会得した技だ。これをしないと、ここではとてももたない、ことにクラック・ベイビーやエイズやガンの赤ん坊だらけのこの診療所では。あるいは、けっして大人にならない赤ん坊たち。もし親たちの目を見れば、そこにある不安や疲弊や苦しみがぜんぶ自分の中に入ってきて根をおろしてしまう。だがいっぽう親たちを一度知ってしまえば、それが唯一こちらにできることでもある──言葉では言い表せない希望や悲しみをこめて、彼女たちの目を見つめること。」
やがてアメリアは伯父の家から放り出され、昼は赤ん坊を抱いて一日中バスに乗ってすごし、夜はホームレスのシェルターで寝るようになる。シェルターでアメリアは女二人に暴力を振るわれ、泣き止まない赤ん坊を静かにさせようとその体をゆさぶる。最後は緊急救命室での「わたし」と「あたし」のこんな会話で終わる。
「『ゆさぶったとき、赤ちゃんは泣いていた?』
『はい』
『それからどうなったの?』
『それから泣きやみました』
『アメリア。ヘスス(注・赤ん坊の名前)は死んだのよ、わかっている?』
『はい。ロ・セ(注・わかっています──スペイン語)』それから英語で言った。『ファック・ア・ダック(注・なんてこった。アメリアが最初に覚えた英語)。アイムソーリー』」
アメリアの「アイムソーリー」という最後の一言が、なんと複雑な悲しさを帯びていることか。主人公のアメリアは、おそらくルシア・ベルリンが緊急救命室(ER)で接したたくさんの患者の一人をモデルにしているのだろう。別の小説、「緊急救命室ノート、一九七七年」は、そのERを舞台に残酷とユーモアが入り混じった見事な短篇。何人もの患者を、ルシアは一筆書きのように短く描写している。
青白く透き通った肌を持つ、「死人のよう」に美しい東洋系のマダムY。いつも、決まったように二人の息子に車で送り迎えされていた。「銀色の車、彼女の黒髪、絹のジャケット、すべてがつややかで滑らかだ。血のように静かに流れる一幕の儀式。/その彼女も死んでしまった。いつだったのかはわからない。わたしの非番の日だった。どのみち彼女はすでに死んでいるようだったけれど、まるでイラストか広告のようにきれいだった」。
ERには常連もいる。アル中(と岸本は訳している)と、発見されることを予期した自殺常習者。彼らは淋しくてやってくるのだ。「偏頭痛のマーリーン」も常連の一人。「『あたし死にかけてんのよ、わからない? ああ早く、失明しちゃう!』『もうマーリーンったら──じゃあその付け睫毛はどうやって付けたのかしら』『くそったれビッチ!』『ほらいいから起きて……』……救急車が到着し、これは正真正銘の緊急だ。二人が死ぬ。……『ふん。こんなとこにひと晩じゅう付き合ってらんないわよ。また来るわ!』『はいまたね、マーリーン』」。
この会話など、彼女のリズムを見事に伝えている。原著の編者で解説を書いているリディア・デイヴィスは、ルシア・ベルリンの文章なら、どの作品のどの箇所からでも「無限に引用できる」と書いている。まったくその通りだなと思う。
引用は止めようと思ったが、本をぱらぱら見ていたら、こんな一節が目に飛び込んできた。「テレビで『バークレー牧場』を観ているときにジェシーが言った。『なあ、どうしよう。結婚する、それとも自殺する?』」(「笑ってみせてよ」)
ほかにも、いくつもの魅力的な短篇がある。メキシコ国境を越えた町で堕胎しかけた体験を語る「虎に噛まれて」。メキシコの海で出会った漁師との美しく官能的な出会い「すべての月、すべての年」。やはりメキシコの街へヘロインを買いに行く「カルメン」。麻薬常習者の砂漠でのリハビリ・プログラム「野良犬」。
僕がルシアの小説が好きな理由のひとつは、彼女の短篇の舞台になることが多い町──エルパソ。エルパソと国境をはさんだメキシコのフアレス。アルバカーキ。サンタフェ──に旅行者としてではあれ行ったことがあるから。ルシアのたった1行の描写から、その風景と空気をありありと思い浮かべることができる。
そんな個人的事情を別にしても、ルシア・ベルリンの小説の魅力をどう表現したらいいだろう。アメリカという過酷な社会に生きる、孤独で、淋しくて、悲しくて、捨て鉢で、それでいて陽気で、きついジョークがばんばん出てくる、生きる力に満ちた男や女。彼ら彼女らに会えるのは至福の時間だ。(山崎幸雄)
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