書籍名 | 戦後入門 |
---|---|
著者名 | 加藤典洋 |
出版社 | ちくま新書(640p) |
発刊日 | 2015.10.10 |
希望小売価格 | 1,512円 |
書評日 | 2015.12.19 |
結論を先に言ってしまおう。本書が提案しているのは日本国憲法第9条の改正である。
加藤典洋が私案としてここで提示しているのは、第1項の戦争放棄はそのままに、第2項をおおよそ次のように変えようということだ。
・自衛隊を国連待機軍と国土防衛隊に分離する。国連待機軍は国連の直接指揮下で平和回復運動に参加する。
・国土防衛隊は国土への侵略に対し防衛に当たる。これは国民の自衛権発動であり、従って国土防衛隊の治安出動は禁じられる。
・核兵器は作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。
・外国の軍事基地は認めない。
集団的自衛権を認める方向で憲法改正を目論んでいる人達からは、なんと非現実的なという声が聞こえてきそうだ。一方で護憲派からも、こうした「新9条論」が「安倍政権の動きを裏側から支えてしまう可能性」(杉田敦、朝日新聞2015年11月29日)が指摘される。でも600ページを超える「受験参考書みたいな」本書を読んで最後にこの提案に接したとき、深く考えこまざるをえなかった。
加藤私案で外国の軍事基地を認めないという条項は、フィリピンの憲法改正に先行モデルがある。フィリピンはマルコス政権を打倒した後の憲法改正で米軍基地撤去を書き込み、米軍基地を撤廃した。その後、フィリピンは中国の南シナ海への進出を受けて再びアメリカと防衛条約を結んだが、加藤はこれを「基地撤去後も自国本位の良好な米国との関係を保てることを内外に示している」と言っている。
古くは砂川判決で米軍基地は違憲の判断が覆された経緯から、現在の辺野古への基地移設問題まで、日本政府は米国政府の意向に反する行動を取れず、従属の度合いを一層深めている。日本国憲法の上には「憲法制定権力」(米国)が君臨している。加藤がこの条項を書き込むのは、従来の護憲論では「憲法制定権力」をくつがえすことはできない、という判断からだ。
非核条項については、その背後に加藤のこんな考えがある。「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませんから」という原爆慰霊碑の言葉がある。因果関係を振り返らず未来の平和のみを語るこの論理に隠されているのは、「『米国を批判できない』という無力感、あるいは『米国を批判すべきだ』という抵抗の意思の放棄」なのだ。
「『憎しみ』や『うらみ』をもってではなく、自由と民主主義の原理を信じ、平和を希求するがゆえに、自国の犯した犯罪の責任とともに米国の原爆投下の責任を論じる、批判する、という立場がありえます。もしそういう立場に立つなら、この原爆投下の責任を論ずることは、現在にいたるまでその責任を問わない日本政府の責任を問うこと、その延長で現在なお米軍基地の現存を容認する日本政府の責任を問うことに、つながるし、また同時に、中国や韓国からの同様の戦時行為に対する批判にしっかりと向きあわない日本政府の姿勢を弾劾する日本の加害責任論へと、私たちを押し出すでしょう」
もうひとつの加藤の提案である国連待機軍構想。戦後の冷戦から冷戦終結後の長きに渡って国連の機能不全を見せつけられてきた目には、いまさら国連になにを期待できるだろうというのが正直なところだ。でも加藤は、対米脱却を実現するのにナショナリズムに拠らないとすれば(ナショナリズムに立脚すれば反米と、やがては戦後国際秩序からの孤立に行きつく)インターナショナリズムに徹するしかなく、国連中心主義を取ることによって反米に陥らずにアメリカから距離を置くことができると説く。
なぜ憲法改正に当たって国連中心主義を取るか。それには歴史的な根拠がある。国連が創設された直後、最も大きな二つの問題──国連軍の創設と核兵器の国際管理──が論議されたのと日本国憲法の制定作業は並行しており、国連と日本国憲法はいわば双生児の関係にある。さらには広島・長崎への原爆投下も大きな影を落としていた。そのことを第一次世界大戦まで遡って論じた章がきわめてスリリングで説得的だった。
日本は第一次世界大戦で脇役として漁夫の利をえたが、主戦場となったヨーロッパ諸国にとって非戦闘員も含め2000万人近い犠牲者を出した史上初の世界大戦が与えた衝撃は大きかった。
一国と一国ではなくグループ間の戦争となる世界大戦では、グループを統合するためこれまで以上に理念やイデオロギーが重要になる。戦争を終結させるために、誕生したばかりのソ連はレーニンが「無併合」「民族自決」「無賠償」「植民地問題解決」の提案を示し、それに対抗して米国のウィルソン大統領は「秘密外交の廃止」「軍備縮小」「植民地問題解決」「国際平和機構の設立」などの平和一四カ条を提案した。こうした流れのなかから戦後に国際連盟が設立され、さらに国家紛争解決の手段としての戦争を放棄することを定めた「不戦条約」が生まれた。
だがその理念を裏切るように第二次世界大戦が始まると、米国のルーズベルトと英国のチャーチルは平和一四カ条を踏まえ、「領土拡大意図の否定」「ナチスの最終的破壊」「安全保障のための仕組みの必要性」などからなる大西洋憲章を発表した。
戦争末期、米国は原爆の開発に成功し、ドイツ降伏後に日本への原爆投下が実行された。しかし多数の非戦闘員を殺傷した原爆投下は、その残虐さから米国の政府高官にも深刻な倫理的動揺を引き起こした。「無条件降伏」という有無を言わさぬ戦争終結案は、そうした道徳的問題を覆い隠すためにも採用されている。一方、アインシュタインら科学者からは「世界連邦」「核兵器国際管理」の宣言が出された。
そうした流れのなかで戦後、国連が生まれて世界警察軍創設と核の共同管理が緊急の課題となった。同時期に、日本では憲法制定の準備が進みGHQから戦争放棄の第9条を含む草案が示されている。だから日本国憲法はやがて国連が構想通りに機能することを前提にした、「その理念を『実行』しようとすれば国連と一対となるほかにない双生児的な構想」にほかならない。でも国連が構想通り機能せず東西冷戦が始まって、文字通り読めば自衛権も含め一切の武力行使を禁じた日本国憲法はさまざまな「解釈」を強いられた。国連も日本国憲法も「未完のプロジェクト」なのだ。
現在の安倍政権もそうだが、戦後の保守政治は「ねじれ」を抱え込んでいる。自己回復(「誇りある国」)を実現するためには対米従属をはねのけなければならず(戦後レジームからの脱却)、安全保障のためには米軍の存在を求めなければならない「ねじれ」。日米同盟(戦後秩序を受け入れること)を前提としながら、戦前とのつながりを求めようとする「ねじれ」。
そうしたナショナリズムに立脚し復古的な価値観を基盤にした「誇りの回復」が、突き詰めれば戦後の国際秩序とその価値観に異を唱えるものとならざるを得ない以上、自由と民主主義というインターナショナルな価値観の上に立ち、未完のままありつづけている国連というプロジェクトを完成させよう。そのことによって対米依存から脱却しよう。そうした条項を書き込むことによって、日本国憲法を選びなおそう。もっといろんな論点が示されているけれど、加藤典洋の論を荒っぽくまとめればそういうことになる。
むろん加藤典洋自身、この提案への支持が近い将来多数派となり改正が実現するとは思っていないだろう。そのような政治的リアリズムから提案されたものではない。これは加藤が『アメリカの影』『敗戦後論』といった著作で考えてきたことを、論理的に徹底させた結果として出てきた提案なのだと思える。でも加藤が私案の源泉のひとつと挙げているカントの『永遠平和のために』がどんなに「非現実的」な理想であろうと、その後の世界に影響を与えつづけているように、加藤私案もこれから憲法を考えるときのひとつの座標軸になりうる。
台頭する中国と、同盟というかたちで従属する米国との間で、この国は21世紀にどんな立ち位置を取ったらいいのか。あるいはまた、イスラム国のように戦後秩序と国連そのものに挑戦するイスラム原理主義をどう捉えるのか。考えるべきことは多い。でも加藤典洋によって灯台にひとつ火が灯された。この光を常に視野に入れておきたい。(山崎幸雄)
| 書評者プロフィル | 編集長なんちゃってプロフィル | 免責事項 |
Copyright(c)2002-2010 Kenji Noguchi. All Rights Reserved.