書籍名 | 戦争まで |
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著者名 | 加藤陽子 |
出版社 | 朝日出版社(480p) |
発刊日 | 2016.08.20 |
希望小売価格 | 1,836円 |
書評日 | 2016.10.18 |
加藤陽子が7年前に出した『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の続編である。『それでも……』は、日本近現代史を専門とする加藤が17人の中高生を相手に日清戦争から太平洋戦争までを語った講義録だった。ポイントを衝いた加藤の解説と中高生の生き生きした反応で、大日本帝国が戦争にのめりこんでいく過程が実に分かりやすくおさらいできるようになっていた。
『戦争まで』も同じスタイル。28人の中高生を前に、この国の運命を決めた3つの外交交渉──国際連盟脱退にいたる「リットン報告書」、ドイツ、イタリアと組んだ「三国軍事同盟」、真珠湾攻撃の直前までつづけられた「日米交渉」──と、その失敗を語っている。
『それでも……』もそうだったけれど、この本がいいと思うのは、中高生相手だからといって変にやさしくしゃべったりせず、まずリットン報告書なり同盟交渉の原文(もちろん一部だが)を示して、それを読むことから始めるやり方。一般書ではこうしたものはしばしば要約され、著者による解釈がほどこされることが多いから、読者にとっても原文を読むのは新鮮だ。
それに付随して三国軍事同盟条約に日本が署名した「原本」も写真で紹介されている。「裕仁」(昭和天皇)、「近衛文麿」(首相)、「東条英機」(陸軍大臣)、「松岡洋右」(外務大臣)らの署名。昭和天皇の字は意識的に崩してないからか中学生が書く文字みたいだなあとか、戦前の政治家・軍人はさすがに達筆で、なかでも松岡はうまいなあ、近衛は神経質そうだなあといったところを見る楽しみもある。
さて、加藤が指摘する3つの交渉のポイントを見てみよう。研究者らしく一次史料を読み込んで、通説に対して新しい見方を示してくれるのも読みどころのひとつだ。
リットン報告書は、満州事変勃発後に中国国民政府が国際連盟に提訴し、連盟理事会が派遣した調査団の報告書。これを読むと、満州国は民族自決でできた国ではないと日本を批判しながらも「侵略」という言葉を使わず、満州国の新政府をどうつくるかについて日本に大きな発言権を認めるなど、「老練」なリットン卿は「日本側を交渉の場に」引き出すために「十分過ぎるほど日本側に配慮していた」。
でも日本(なかでも関東軍)は、朝鮮半島から満州に越境させた朝鮮軍と、認められた地域外に侵出した関東軍が撤兵を求められるのを拒否した。本来は交渉の余地のある話だったが、政府は正確な情報を出さず、新聞は「支那側狂喜」「最悪の報告」(朝日新聞)と書き立て、報告書を呑めば満州国はなくなるという空気がつくられていった。
二つ目のテーマ、日独伊三国同盟は交渉開始から締結まで20日間で結ばれた「異様」な条約だった。なぜそんなに急いだのか。このときヨーロッパではナチス・ドイツがポーランド、ベルギー、オランダに侵攻し、さらにパリへも無血入城し、ロンドンも空爆にさらされていた。そこでアメリカがどのような態度を取るかが焦点になっていた。ドイツ・イタリア側が急いだのは、日本と同盟を結ぶことでアメリカを牽制し、アメリカの介入を阻止しようとするためだった。
一方、通説では「バスに乗り遅れるな」と勝ち馬に乗ったと説明される日本だが、急いだ理由はほかにもあった。ドイツに負けたオランダ、フランスが持っていた東洋の植民地(仏領インドシナ、オランダ領インドシナ)をドイツに渡したくなかったからだ。
条約第2条に「ドイツ国およびイタリア国は、日本国の、大東亜における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重す」とある。アジアの植民地を押さえたドイツは、やがてなんらかの手を打ってくるだろう。その前に、「ドイツと同盟を結ぶことで、ドイツを牽制」する、つまり「植民地宗主国を抑えたドイツによる、東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるため」に、日本には締結を急ぐ理由があった。その際、国民に向かっては、オランダに支配されてきたジャワを解放し大東亜共栄圏を確立するという「物語」が語られた。
三番目の日米交渉の章では、通説で対ソ戦を準備する一方、「対英米戦を辞さず」と両面作戦を取ったとされる1941年7月の「帝国国策要綱」についての見方が面白い。この「要綱」では「北方問題を解決」する北進論と、「大東亜共栄圏を建設」する南進論が両論併記された。でも海軍部内の史料を見ると、「対英米戦の決意が海軍にあったとはとうてい思えない」と加藤は言う。「対英米戦を辞せず」の言葉は、北進論を唱える参謀本部(陸軍)と松岡外相に対して、陸軍が対ソ戦に突っ込まないよう海軍側が牽制するための「作文」だったというのだ。ところが、この「作文」が現実になってしまうのだから恐ろしい。
日米間に緊張が高まった8月、近衛首相はルーズベルト大統領に首脳会談を申し入れ、ルーズベルトも乗り気になった。しかしこのことがアメリカの新聞で報じられると国家主義団体が反発し、テロの恐怖を背景に対米交渉派を攻撃するビラを撒いて反対運動を組織した。政府と軍部とメディアと国民と、いずれが原因でもあり結果でもあるように反英米の機運は高まり、合理的な判断はかえりみられなくなってゆく。
9月には近衛暗殺計画が発覚し、天皇も後に「私が若し開戦の決定に対して『ベトー(拒否権行使)』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない」と述べるような空気になっていた。10月に天皇は木戸幸一内大臣に対して「国民はどうも此点(評者注・文武恪循─文武が寄り添うこと─と世界平和)を等閑視して居る様に思われる」と「国民の態度への不満を述べている」(加藤)。このころになると、天皇ですらも押しとどめようもなく国民の空気が燃えあがってしまっていた。その空気に押されて、日本は「一か八かに賭けた」。
加藤陽子が中高生に向けてこの講義をしたことの背後には、今の日本と世界に対する危機感が流れている。加藤は、尖閣諸島国有化の際の中国国内の激しいデモや、その後の日本人の中国に対する感情、集団的自衛権の行使容認によって「軍事同盟の世界に今後の日本が入っていくこと」、さらにヨーロッパの移民排撃などに触れながら、歴史を学ぶことの意味をこう語っている。
「治安悪化やテロの温床となるという恐怖心から、難民への敵意をむきだしにした排外主義的な示威運動なども起きています。/このような恐れの感情、そして、愛する人が殺害されるのを見殺しにていいのかといった、強い感情が出てくる瞬間が、日本においても将来、きっとある。そのような事態が起きたとき、私たち人間が選択を誤らないために、恐怖にかられた人類というものが、どう振る舞ってきたか、それを知っておくのは重要です」
人が敵とみなす相手に過剰に反応するきっかけは、相手にしてやられたという感情、被害者意識、不安や恐怖といった受動的なものが元になっていることが多い。その受け身の感情が炎上して憎悪に反転したとき、人は過剰に攻撃的になったり暴力的になったりする。そしてそんな感情の動きを利用しようとする政治が必ず存在する。加藤の言う「日本においても将来、きっとある」その瞬間に理性的な判断をするために、本書はそのレッスンとしてたくさんの人に読んでほしい。(山崎幸雄)
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