書籍名 | 女女格差 |
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著者名 | 橘木俊詔 |
出版社 | 東洋経済新報社(344p) |
発刊日 | 2008.6.13 |
希望小売価格 | 1890円(税込み) |
書評日等 | - |
もともと、「格差」というのは好きな言葉ではない。含意されているものがどうも非合理的であったり、結果としての「差」でしかないものまで「格差」として語ることなどがその原因である。そう考える人も多いので「格差」本をアジテーションではない形に纏め上げる難しさがあるのだと思う。
本書では、アプローチとしてまず男女格差を語り、女性の階層、教育格差、結婚と離婚、子供をもつか・もたないか、専業主婦と勤労女性、総合職か・一般職か、正規労働か・非正規労働か、美人と不美人、といった諸点で議論を展開している。多様なデータを駆使するとともに、引用したものの出典をはっきりさせているのも特徴である。
概念説明も丁寧に記述されている。例えば、「マルクス主義においては支配・服従関係を格差として扱うことから階級(Class)という言葉を使用してきた経緯があり、非マルクス主義では対立関係を前面に出すのではなく、特色を共有するグループ間の差に注目することから「階層(Status)」を使うということである」。「非マルクス主義」という定義を聞くと、その大雑把さにいささか驚くところもあるものの、こうした概念の説明や、扱っている格差の論点も網羅的で抜けは少なく「格差」初心者として読みやすくなっている。
論点を多少まとめてみる。
まず、女性間の格差を分析してくると、必然的に殆どの場に男性が関与してくるという特性を指摘している。専業主婦を念頭においてみると、夫の地位・所得・資産などが計測の対象にならざるを得ない。男性がいないと階層すら特定化できないという事実。このように女性が持つ多様な立場は男性の階層を語るよりも複雑であるということを示している。
次に、女女格差の中には男女格差から結果的に生じたものがあるという指摘。ここで著者は、大胆な解釈をしていると思うのだが、「男性が理工系や社会科学系を中心に学ぶので、結果として女性は人文系や芸術系を学ぶ余裕があった」、そして「女性に働く気がないのであれば、社会に出て就業するのにそれほど役立たない学問分野を学んでもよかったのである」としている。その結果、社会進出をしても企業内での活躍の範囲に限界があったという見方である。この論理展開には飛躍というか無理を感じざるを得ない。原因と結果の相関にもう少し多様な視点が要求されると思う。ただ、「女女格差の一部は男女格差から生じた」という見方は重要なポイントと思う。
三点目は、女性が近年、積極的な人生選択を行ってきた結果として女女格差が顕在化してきた分野があるという指摘である。過去、女性の教育水準格差は二極化していたが、いまや三極化してきている。高い大学教育を受け、卒業後キャリアをまっとうして高い所得を稼ぐ女性の数の増加とともに、他の二極である普通の四大や短大卒の女性、高卒の女性も同様に働き続けたいというキャリア志向が増加してきていると統計は示している。「働き続けたい人」と「そうでない人(働きたくない人)」との乖離が大きくなった時代と理解している。まさに、過去の格差の原点といわれた「教育格差」は相対的に小さくなり、女性自身の意思と選択によって女性間の格差が顕在化しているという見方である。
第四に、女性にとっては結婚と出産という行為が「女女格差」の決定にインパクトを与えているという点。男性は結婚・出産で就業を続けるかどうかを選択することはないのだが、女性はいろいろな人生の局面で就業の継続か否かの選択を常に迫られる。これらの点は過去、女性の持つ不利な点と考えられていたところであるが、著者はこの点を極めてポジティブに考えている。人生の中で男性と比較して人生選択を必要とする女性だからこそ、男性の選択肢のなさに比較して柔軟な人生を送ることが出来ると評価している。従って、その選択の結果として、「希望を成就した女性を恨んではいけない」と著者は言うのだが、統計が示しているのは「恋愛に憧れ、結婚もしたい、子供も持ちたい、出来れば働くこともしたい、とする女性が多数派である。」という事実があり、「自由な選択」と裏腹にある定型的な「幸福論」に揺れている女性達が見えるようである。
次に、「美人は得か、不美人は損か」という議論である。著者の論点を紹介する。
「生まれつきの能力の高低については、人によっては機会の不平等であると思うこともあろう。しかし、それは不条理のことと理解せざるを得ず、生んでくれた親を恨む人は殆どいない。・・・同じ様に生まれつきの容姿についても同様に考えられるのではないか。・・美人に生まれるか、不美人に生まれるかは不条理の世界なのである。・・・美人として生まれた人がその天賦の才能を生かそうとすることは当然許されるし、むしろ生かさない方がおかしい。救いは、たとえ不美人であってもさほど損はしていない。従って、美人を羨ましく思うより、他の能力を生かすことによって補償できることに努めた方が賢明である。・・また、容姿に関しては、世の中には化粧という手段があり、衣装によって優雅に見せることが出来る・・・・」
次に、「女女格差」は不合理かということに視点を当てる。格差には「機会」の格差と「結果」の格差があるわけだが、機会の格差として捉えるべきは社会・会社における「採用」や「昇進」がポイントと言っている。採用に関しては近年女性が働き続けることをコミットすることによって差別は少なくなってきたし、改善されてきたと思う。この点は実業に携わるものとして書評子は著者の認識より改善度合いについては積極的に評価している。ただ、「昇進」について女性管理者の少なさは明らかに「昇進を望む女性が少なかった」という理由もあるものの「女性がそう考えざるを得ない状況」があったことも厳然たる事実である。この点は今後企業の中で解決していかなければならないポイントという指摘は納得できる。
そして、結果の「格差」を単純にいえば、賃金ということになるだろう。視点としては「正規労働と非正規労働」の議論ではあるが、著者は明確な「同一労働・同一賃金」論である。この見方はまだ無理があるように思う。なぜならば、「同一労働・同一賃金」という二つの変数で経営は人を採用していない。別の変数である雇用条件も考える必要があるだろう。例えば、転勤や残業の許容といった条件が同じであれば同一賃金論が成り立つのであろうが、単に「同一労働・同一賃金」というのは単純化しすぎていて、まだまだ働く側と企業側とのより深い議論が必要そうである。
いろいろな視点・議論を呼ぶ分野を対象としている本書であるが、一石を投じるという意味であえて挑戦的な部分も端折らずに言及しているのは好感が持てた。(正)
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