書籍名 | サラーム・パックス |
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著者名 | サラーム・パックス |
出版社 | ソニー・マガジンズ(408p) |
発刊日 | 2003.12.27 |
希望小売価格 | 1600円 |
書評日等 | - |
サブタイトルには「バグダッドからの日記」とある。書名であり筆者名でもある「サラーム」「パックス」は、それぞれアラビア語とラテン語で「平和」。これは、インターネットのブログ(個人の日記サイト)上に29歳のイラク青年が書いている日記を翻訳したものだ。
翻訳されたのは、アメリカがイラクに戦争をしかける半年前の2002年9月から、フセイン政権が倒れて3カ月後の2003年6月まで。英語で書かれた日記は戦争が近づくとともに知られるようになり、世界中からアクセスが殺到した。最初の日(9月7日)は、こんなふうに書き出されている。
「最近、緊急避難物資を用意し始めた。何かアドバイスがあればぜひ。そろえたのは、今のところ――
ろうそく
アルコール(赤ワインがいいかな?)
おもしろい本
ポテトチップス
これできっと、空爆を余裕で乗り切れるはず」
パックスが「おもしろい本」といっているのは、日記から拾ってみるとウィリアム・ギブソンやウィリアム・バロウズであり、雑誌でいえば“THE FACE”や“WIRED”である。好きな音楽はビョークやデビッド・ボウイで、好きな映画は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。
パックスはロンドンや渋谷にいてもおかしくない尖ったカルチャー青年だ(独裁政権下の抑圧された社会にこんな青年がいるはずないという認識そのものが偏見というべきだろう)。おまけに彼はホモセクシュアルで、イスラム社会で禁じられているアルコールも好きだし、どうやらアラーの神も信じていないらしい。
そんな自称「世俗的変態アラブ人ブロッガー」の日記が、どんなニュースやドキュメンタリーよりバグダッドの空気を感じさせる。パックスはサダムが嫌いだけれど、ブッシュも嫌いだし、「人間の盾」みたいなおせっかいな連中は更に嫌いだ。
「政治の世界に、利他主義なんていうものがあるとは思ってないからね。無料のランチがあるはずないし、なんらかの個人的動機がなければ、だれも何一つするはずがない。だから、もしアメリカ政府が戦争を始めるなら、それは「他者を自由にする」ためではなく、ほかに百通りも理由があるはず」
「あんたは自分の場所にいればいい。自分の国の問題くらい、自分で解決させてくれ」
戦争はじわじわとパックスの身の回りに迫ってくるけれど、そんなこととは無関係に、ある日の天気に心奪われたり、禁じられている酒を飲みたくなったりする、こんなつぶやきがまたいい。
「3カ月間快晴の空と焼け付くような朝日が続いた後で、摂氏29度前後の曇った朝を迎えた。涼しい曇り空。なんて素晴らしいんだ」
「よく行く「悪魔の酒屋」に着いたのは、店の電気が消えようとするときだった。店主はぼくの目に切羽詰まったものを感じ取り、にっこり笑って、国産はないが輸入ものならあると言った。なんてこった。この2カ月給料をもらってないんだぜ」
やがて戦争が始まって、「この2日間、インターネットがつながらなかった」という書き込みを最後に、日記は中断される。パックスは死んだのかと、ネット上では情報が飛びかったらしいが、数週間後、パックスの友人がその間の彼の日記をアップして、彼の無事が確認される。
「午前中は、砂、雨、砂と続いた嵐がもたらした残骸の後かたづけに追われていた。もちろん、爆撃音のビートに合わせての作業だ。もうぼくらの生活のサウンドトラックといった感じ。爆撃音で目を覚まし、対空砲のタッタッタッという音に合わせて歯を磨く。そしてランチタイムにぴったり合わせて攻撃が始まるんだ」(戦争8日目)
「(米軍の)小型の装甲車が2台走っていて、その後ろを走る数人の兵士が、前に銃口を向けていた。神の悪趣味ないたずらで、ぼくはなんと、アメリカ軍が踏み入ろうとしている建物の入り口正面に立っていたんだ。ぼくは両手を挙げ、パンツにチビりそうになりながら「撃つな!撃つな!」と叫んだんだ。それで撃たれずにすんだ」(米軍バグダッド占領後の5月)
パックスは、友人から「モラルも主義もない現実主義のブタ」とののしられながらも、その友人がつくった戦争被害者救援のNGOと行動を共にして国中を見て歩く。そして、こうつぶやく。「戦争は最低最悪だ」。
パックスの日記は今でも続けられている(dearraed.blogspot.com)。僕はこの本を読みはじめてから、毎日覗くようになった。先日も、バグダッドの爆弾テロを心配するメールに、「ぼくは生きてるよ」と書き込みがあった。
分かりやすい英語で、僕の錆びついた語学力でも何とか理解できるから、興味のある方はぜひ。パックスのホームページから、彼が興味をもつ世界中の別の日記サイトへリンクが張られていて、日本の日記サイトの、砂糖菓子にくるまれたような日記やポルノっぽい日記とは別の世界が見えてくるはずだ。(雄)
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