書籍名 | 世代の昭和史 |
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著者名 | 保阪正康 |
出版社 | 毎日新聞出版(224p) |
発刊日 | 2022.10.05 |
希望小売価格 | 1,760円 |
書評日 | 2023.01.15 |
著者の保阪正康は昭和14年(1939年)生れ。評論家・ノンフィクション作家として活動し、ライフワークは本書の原点ともいえる「昭和史講座」と題して、多様な世代の昭和体験と思いを集めた同人誌で2004年の菊池寛賞を受賞している。
歴史を世代に区切って語るというのは、社会科学方法論としては違和感があるし、世代として括られてもその中には多様な歴史観が存在するという認識は私だけではないだろう。しかし、保阪は世代論として歴史を考える意味として「自分の世代が持っている、価値観や社会観の確認」「それぞれの世代が持っている社会的事件とその影響力」「世代間を繋ぐ言葉と心理を支える基盤」「戦争体験とその教訓の継承」の四点を挙げている。
本書ではサブタイトルにある様に「戦争要員世代: 大正11年(1922)~大正13年(1924)生れ」と「少国民世代: 昭和5年(1930)~昭和10年(1935)生れ」に焦点を当てて昭和を描いている。人生に影響を及ぼす社会的事件とは、幼少期から青年期に遭遇したイベントや教育を通して刻み込まれた体験が成人し熟年になっても良かれ悪しかれ生き様に影響を与えているという考え方だから、昭和を世代論として語るキーワードは「太平洋戦争」ということになる。保阪は昭和史の語り部と言われる半藤一利の思いを引き継いでいきたいと言っているが、その半藤が昭和5年生まれの「少国民世代」であることも偶然ではないのだろう。
「戦争要員世代」は太平洋戦争で最も戦死者の多かった世代であるとともに、学徒出陣の世代で「きけわだつみのこえ」に代表される戦没者の手記も一番残されている。そうした記録や、生き残った同世代の人々からの話を聞き、保阪は「戦争に直面することで、死を受け入れる以外にない時代にめぐり合わせた」世代と表現している。
学徒出陣と聞くと、昭和18年に行われた神宮外苑の学徒出陣壮行会を記録映像とともに思い浮かべるのだが、陸海軍で10万人の学徒兵が兵役につき、その内1万5千人が戦死しているという数字を示されると、今更ながらに彼らの無念さが偲ばれる。
「戦艦大和の最後」を書いた吉田満(大正12年生)は「我々を戦地に駆り出そうと迫る暴力に対し、苦しみながらも受け入れたのは、歴史の流れが逆戻りを許さぬ深さまで傾いていることを知ったからである。先輩や戦前派の人達は戦後いろいろ釈明を試みているが、結局は彼らの責任で長期戦に進み、戦火に身をさらしたのは彼らではなく、我々の世代だった」としている。また、司馬遼太郎(大正12年生)は自分達の前の世代の国の指導者を批判しているものの、彼は昭和史を書くことはなかった。その理由を司馬は「精神衛生上悪い」という言い方をしていたという。それだけ自らが体験した時代を文章化すると登場する人々を許せない気持ちが強くなり、客観的にはなれないということのようだ。
こうした「戦争要員世代」を死地に向かわせたのは、太平洋戦争開戦時の総理大臣だった東条英機に代表される「戦争を動かした先行世代」である。
東条は明治17年生(1884)で、同年生まれには海軍の山本五十六、自由主義者だった石橋湛山、反翼賛の政治家三木武吉などが名を連ねる。保阪は、これらの人々の生き様を描きながら、何故、戦場体験の無い陸軍官僚の東条が突出したのかが重要な視点と語っている。陸軍士官学校からは東条の前後にも有能な人間が出ている。例えば一期前の永田鉄山は軍事テロ(暗殺)に会わなければ東条の時代は無かったとも言われる人材だ。保阪は政治に対して軍が増長した理由を、天皇と直結した軍こそが国の主権を持ち、反対論には「統帥権干犯」という烙印を押すことで排除していったこと。また、具体的な威圧としてはテロとクーデターによる政権獲得手法がまかり通っていたことを挙げている。永田鉄山の暗殺にはじまり、5.15事件、2.26事件と続く軍政の歴史そのものである。もし、「永田が殺されていなかったら」という仮説の意味はともかくとして、保阪は「永田が軍の責任者であったら、少なくとも学徒が特攻として遺書を書くことは無かった」と言い切っている。
終戦とともに、この「戦争要員世代」は戦いの時代を振り返り、その教訓を語り始める。そのひとりが鶴見俊輔(大正11年生)である。彼はハーバード大学に留学し、昭和17年に帰国し海軍で米軍のラジオ放送を傍聴する情報戦に携わった。戦後教壇に立つとともに、戦時中の共産党・社会主義者の翼賛化や自由主義者のファシズム化について研究し昭和34年にあの大作「転向」を世に出している。それは「裏切り」を暴くのではなく、「間違いの中にある心理を掬い上げる」という考えで活動家・政治家・知識人たちの行動分析をしている。また、遠藤周作(大正12年生)は戦時中もカトリック教徒として過ごし、戦後「海と毒薬」に代表される、日本人の倫理観について批判的に考察している。兵役に就いていた評論家の村上兵衛(大正12年生)は「天皇の戦争責任」を論じ、「裕仁天皇は終戦をもって退位すべきだった」という指摘もする。同時に保阪は明治・大正・昭和・平成の天皇の戦争観をまとめる中で、昭和天皇が終戦後に強い言葉で自省していることも村上の論と合わせ読むことで太平洋戦争と天皇との関係を考える上で大きなポイントだったことを再認識させられる。
平成天皇は生前退位の会見で「自分の代に戦争が無かったことを喜びとする」と述べているが、政治的発言と指摘される恐れもあるが、まさに本音なのだろう。
「戦争要員世代」の日本国憲法に対する思いも論点として取り上げられており、渡辺恒雄(大正15年生)と財界の品川正治(大正13年生)の話を対比して問題提起をしている。渡辺は令和2年のNHKスペシャルで日本国憲法について「非軍事憲法」という言い方をして「戦争を認めない前提でこの憲法を平和憲法とするための努力(改憲)が必要」と語っている。一方、品川は中国戦線に送り込まれ、昭和21年4月に上海からの復員船で帰国する。上陸を待つ船内に新聞が届けられ、そこには前日に公表された日本国憲法が掲載されていた。部隊の兵士を前にして品川が憲法を読み上げて行くと、第9条を読み上げたところで全員が泣いたという。品川は「戦争を始めるのも人間。止めるのも人間。お前はどっちだ」と問い続けた戦後と回顧している。こうした兵士にとって日本国憲法は平和憲法と言えるのだろう。渡辺と品川の意見の相違が有っても共通の「非戦争」という意味では同じ土俵と保阪は考えている。しかし、こうした議論もロシアのウクライナ侵攻を目の前にすると「平和」の確保のための物理的な「努力」が必要という事も良く判る。
次に「少国民世代」について、小田実(昭和7年生)、野坂昭如(昭和5年生)、本田靖春(昭和8年生)などの声を集めている。この世代にとっての太平洋戦争とは、集団疎開、勤労動員、兵役(満蒙開拓青少年義勇軍・海軍特別年少兵)といった戦争体験であり、戦後の教育の大転換の影響が大きい。この世代の心理形成は「全ての言論・事象を疑う」「現実は不変ではない」「権力は事実を捏造し国民を欺く」といった、ある種のニヒリズムが根底にあるとしている。
この世代は戦時下の皇国少国民教育から戦後民主主義教育という大転換の中で屈折した思いを語る人が多い。映画監督の篠田正浩(昭和6年生)も学校が再開されたとき歴史の教師が「申し訳ない授業をした。許してくれ」と頭を下げたという。そして、昭和21年1月に天皇の人間宣言で天皇自身が教育の過ちを認めた事で、「真実は何かを自分で確認しようと覚悟した」と言っている。半藤は「昭和20年の東京空襲で真っ黒になった焼死体を見ながら、戦争を賛美してきた大人たちの無責任さや不条理を感じ、もう生涯『絶対』と言う言葉は使わないと考え生きてきた」と語り、「八紘一宇」「挙国一致」といった四字七音の言葉に振り回されたことから、プロパガンダに通じる言葉に敏感になったという。また、半藤は日本国憲法下の自衛隊についても、単なる軍隊への嫌悪感ではなく、国内に向けた暴力化(クーデター等)の危険性も注視しており、「平和」を語るにあたって軍事力を論理的に考えて行く重要性を示している点は注目したい。
本書の中心にある「戦争要員世代」は、私にとっては両親の世代である。父は大正9年生れで、昭和17年9月に大学を卒業し、就職している。昭和18年には召集で予備士官学校に入り新潟の新発田連隊に配属されてポツダム中尉で終戦を迎えた。終戦で銀行に復帰したものの、昭和22年には、政府の「公職適否審査委員会事務局」に出向を命じられ、20代後半でいわゆる公職追放の審査事務に携わっている。その時、自身の父親や伯父たちを追放処理するという運命に向き合いながら、どう気持ちの辻褄を合わせていたのかについて父は私に語ったことは無い。ただ、父は「子供の頃からの仲間達は1/3位戦死した。彼らの為にも生き残った俺は頑張らなくてはいけない」と話していたが、それが父の戦後を生きるモチベーションだったと思う。
母は大正13年生れで、女子大に在学中で神宮外苑の学徒出陣壮行会に送り出す側で参加していた。東条が挨拶している、あのニュース映像に写っているという話を母から聞いたことがある。
両親からもう少し当時の話を聞いておけば良かったなと思うこともあるが、戦時中のことに対しては二人とも話したがらなかったし、けして楽しい時代ではなかったということだろう。(内池正名)
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