最高の二番手【堺 正章】

最高の二番手


書籍名 最高の二番手
著者名 堺 正章
出版社 飛鳥新社(288p)
発刊日 2025.01.21
希望小売価格 1,650円
書評日 2025.06.19
最高の二番手

著者の堺正章は1946年生まれ。厳密に言えば私より一才年上だが、同世代である。役者の堺駿二の次男として生まれ、1962年・16歳の時に田邊昭知が率いるザ・スパイダースに加入。1970年にザ・スパイダース解散前後からソロ歌手だけでなく歌番組の司会や役者としても多彩な場で活躍してきた。そんな堺が70才台後半になって始めた「心の断捨離」の成果が本書である。もともと、過去の思い出や胸中の思いを世間に晒すことは好きでなかったが、年齢に加えて、MCとして携わってきたテレビ番組が終了したりした一抹の寂しさやコロナ等で先が読めない時代だからこそ、何か書き残すことに意味があると感じたことがきっかけ。肩の力を抜いた軽やかな文章で、堺と同世代で生きてきた私の時代感覚もそこに混ぜ加えながら読む面白さがあった。

堺は影響を受けた人物として父の堺駿二、ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知、かまやつひろしなどを挙げ、彼らからの学びのエピソードを書き連ねている。多分、本書を書くにあたっていろいろな経験や会話を思い返すことで、それらが堺自身の発想の原点であることに今更ながら気付かされたのではないかと思う。

子供(6才)の頃、父親の仕事場である京都太秦の撮影所に遊びに行ったのがきっかけで子役として出演したのが芸能活動のスタートとのこと。堺駿二は早川雪洲の付き人から、昭和12年に日独合作映画に出演したのが役者としてのスタートである。市川右太衛門・片岡千恵蔵といった二大スターが君臨する当時の映画界でその二大派閥の両方と上手く付き合いつつ、東映だけでなく、大映、松竹にも出演していたという役者はめずらしい存在だった。そして、周りの誰からも悪口を言われなかった堺駿二の生き様こそ、本書のタイトルにもなっている「最高の二番手」として堺は父の生き様を見ている。しかし、父から役者になれと言われたことはなく、また、父親が命を掛けていた役者への世界に踏み込むのは無理という気持ちも有った。スパイダースに加入するという選択をしたその時も「ホリプロに口をきいてくれた」という話を知ると、父親としての優しさを超えた物も感じてしまう。こうして、同じ芸能界とはいえ、父とは違った道を歩んだ堺だが、娘が堺小春として芸能界に進んだことに堺は「栗原家(堺の本名)三代100年の芸道は素晴らしきかな」と語っている。芸能界でバトンを繋いでいるという家業的な意識は強かったのだろう。

堺に影響を与えたもう一人の人物としてザ・スパイダースのリーダー田邊昭知を語っている。堺は1962年にザ・スパイダースに加入。この時代はロカビリーやカントリー&ウエスタンのバンドが中心でジャズ・バンドはそう人気もなく、都内各所のジャズ喫茶をまわってステージをこなすものの客の方が少ないステージが殆どという下積みの時代が続いた。その間もリーダーの田邊がメンバーを激励しながら求心力と情熱で演奏を続ける姿にリーダーのあり方を学ぶとともに、この下積みの3年間が堺の芸能生活の基盤を作ったと語っている。

スパイダースの転換点は、かまやつが作詞・作曲した「フリフリ」(1965)と「夕陽が泣いている」(浜口庫之助作詞・作曲1966)の大ヒットにより、テレビの音楽番組にアイドルのように出演し始める。こうして田邊の悲願は成し遂げられた。加えて、まだ日本では無名だったビートルズの楽曲情報をメンバーのかまやつひろしが飯倉の伝説のレストラン「キャンティ」の人脈から手に入れ、素早くカバーしてビートルズが日本で爆発的に売れた時にはその楽曲を全て演奏出来るバンドになっていたこともあり、1966年ビートルズの来日公演でオープニング・アクト(前座)の依頼が来たものの田邊は「ゆっくり客席から、ビートルズのライブを観よう」と言って断ったというエピソードも田邊の美学なのだろう。

1969年になるとメンバーのソロの活動も増えて行き1970年12月をもってザ・スパイダースは解散する。堺にとって「帰るところがなくなった」という不安と新しい世界への好奇心が重なった時だ。

堺が歌番組の司会、バラエティ、ドラマに出演し始めたころ、ロックシンガーの内田裕也からすれ違いざまに「裏切者!」と言われたという。内田からすると堺は歌を捨てた歌手と思っていたのだろう。その後、日本レコード大賞の司会を16年間務めたことで堺は功労賞を貰うことになったが、受賞式に出席しなかった理由として、「本来は歌う側の人間であるのに、司会で功労賞を貰ってしまっては完全に司会側の人間になってしまうという戸惑いだった」という。それも内田の一言が心に残っていたのかもしれない。ただ、この時代になると堺が新曲をリリースするのは極めて少なくなっていったと私は思っていたのだが本書を読んで、「さらば恋人」(1971)以降59曲もリリースしていることに驚くとともに、堺自身も原曲のキーで歌える間は歌いたいと言っているし、最近の7年間は年末にBlue Note Tokyoでソロ・ライブを続けているというのは素晴らしい事だと思う。

スパイダース解散後はTBSの「時間ですよ」に出演したことから演出の久世光彦にも学ぶことが多かった様だ。このドラマの中で本筋のストーリーと関係なく脚本にない堺と樹木希林が唐突に繰り広げる劇中コントが売りの一つでもあった。これに対して脚本家の橋田寿賀子は「ドラマの途中にコントはいらない」と声を荒げたものの、演出の久世は「せっかく、僕らや役者たちが新しいことにトライしているんだから、嫌だったら止めてもらってかまわない」と言い放った。この騒動で橋田は脚本から降りて、向田邦子が引き継いで番組は続いた。ただ、この後、橋田は数多くのテレビ・ドラマ脚本を手掛けたが、堺に声がかかることは一切なかったという。そんな裏話とともにその後も「西遊記」「天皇の料理番」「チューボーですよ」といった番組で才能を開花させていたと思う。

その他、特に芸能界では「難しいのは一位になることよりも、一位の立場をキープすること」と言っている。堺にしてみるとザ・スパイダースの人気に火がついたものの3年で人気を失っていった経験を冷静に考えて思い至ったのが「自分が今ピークにあると感じたら、そこはまだ本当のピークではなく、上昇過程にあると意識する」ことによる、ゆとりの重要性を語っている。

また、「5勝4敗1分」の人生を目指す生き方とか、「3分の1の理論」と題して「好き」「嫌い」「普通」な人が各々1/3ずついるのが良いバランスと考えるといった、ネガティブになりそうな時にもポジティブに発想していくための心の切替スイッチが沢山紹介されている。そう考えると堺の芸能界人生も厳しい状況が多かったという事なのだろう。同時に本書を通して堺の父親を始めとして出会った人々に対する尊敬と感謝が見えて来る。

わが身を振り返ってみると、私の父は仕事と家庭を完全に切り離していた人なので、子供の私を職場に連れて行くこともなかったし、私の就職の際も父が考えていた業種と全く違う会社を選んだことから「これからは、お前の好きに生きて良い。ただ、金が無いからと言って家の敷居を跨ぐな」と言い放たれた。だからと言って私と父は仲が悪いわけでもなく、寡黙な父は心配しながら私の仕事や家庭生活を福島の地から見てくれていたのだと思う。そして父の死から1年半後に3.11が発生し、東京にいる私は福島に対して何をすべきなのか、何が出来るのかと思い悩んだ。その時に「親父が生きていたらなにをやるのだろうか」と考えて行動していた事を思い出しながら、私もそろそろ「心の断捨離」をすべきなのかと思い至った。(内池正名)

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