書籍名 | 戦争は女の顔をしていない |
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著者名 | スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ |
出版社 | 岩波現代文庫(506p) |
発刊日 | 2016.2.16 |
希望小売価格 | 1,540円 |
書評日 | 2023.07.15 |
机の上に「積ん読」本の山がある。といっても、それ以外の本をすべて読んだわけでもなく、読んでない本のほうが多いのだが、なかでも「積ん読」した本はいつか必ず読もうと決めたもの。いつしかそれが10冊近くたまっている。今月76歳になった癌サバイバーとしては、このままでは文字通り「積ん読」のままこの世におさらばしかねない。そう思って手に取ったのが、いちばん上にあった本書だった。
『戦争は女の顔をしていない』(1984)は、ノンフィクション作家として初めてノーベル文学賞を受けたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの第1作であり代表作でもある。第二次世界大戦の独ソ戦は、戦闘にとどまらずジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた「人類史上最大の惨戦」(大木毅)で、ソ連側で戦闘員約一〇〇〇万人、民間人を含めると二七〇〇万人の死者を出している。この戦争には一〇〇万人を越える女性が従軍していた。アレクシエーヴィチは、参戦した五〇〇人以上の女性を訪ね歩いて戦争の話を聞き、そうしてできあがったのが本書だ。
タイトルが端的に示しているように、この本をひと言で言うなら「女たちの戦争」ということになる。アレクシエーヴィチも書いているが、これまで戦争はほとんど「男の言葉」で語られてきた。男の目、男の感覚、男の価値観。取材を始めたアレクシエーヴィチがまず突き当たったのはその壁だった。「訪問して話を聞く時に、もし彼女のほかに身内や知り合い、近所の人などがいると、ことに男性が居合わせると、二人っきりで話を聞く時よりは、真心からの打ち解けた話が少なくなる」。その言葉に続けて、アレクシエーヴィチはこんなエピソードを記している。ある女性に話を聞きにいくと、夫は妻を台所に立たせて自分で話したがった。ようやく妻と二人きりになると、彼女はこう告白した。「ひと晩中わたしと一緒に『大祖国戦争の歴史』を丹念に読んだんです。わたしのことが心配で心配で。今だって、見当はずれなことを思い出すんじゃないか、ちゃんとした話ができないんじゃないかって気をもんでるの」。
戦後、従軍した女性たちは沈黙を強いられた。まともな女の子なら戦争なんか行かないとか、「戦争の雌いぬ」などと蔑まれ、女性たちも新しい生活のために戦争を忘れようとした。その記憶を呼び覚まし「痛みに耳を澄ます」ために、アレクシエーヴィチは彼女らの心の底に降りていくことから始めなければならなかった。
そのようにして集められたたくさんの証言は、取捨選択され30ほどのグループに分けられている。でもこの本は、普通のノンフィクションとはいささかスタイルが違う。文庫本500ページに及ぶこの本を読んで気づくのは、まず彼女がストーリーをつくらないこと。小生も雑誌記者をやっていたから分かるが、取材した素材を読者の興味を引くようなストーリーに構成することは、ジャーナリストが当たり前のように採用する手法。でもストーリーをつくる代償として、そこにはまらないものは捨てることになる。彼女はそこからはみ出すもの、互いに矛盾する語りも丹念に拾い上げている。
いまひとつは、ひとつの価値観や主張に染め上げないこと。価値観や主張を鮮明にするのは時に必要だが、彼女はそれもやろうとしない。でもそのことで逆に、この本は「アレクシエーヴィチの作品」というより、彼女を媒体としてもっと広く深い歴史の現場へと読者を連れ出す。戦争の最前線がどういうものか。この本はなによりそのことを、戦争を知らない読者にも身に染みるように分からせてくれる。
どのページを開いても、そんなディテールにあふれているけれど、三つだけ引用してみよう。
「白兵戦……ボキボキいう音を覚えています。白兵戦が始まるとすぐこの音です。骨が折れる、人間の骨がボキボキ折れるんです。獣のようなわめき声! 突撃のときは他の兵士たちにつづきます、ほとんど肩を並べて。何もかも目の前で起こるんです。男たちは相手を刺し殺そうと銃剣を突きたて、どどめを刺すんです。銃剣で口や目を突く……心臓や腹を……それに……何と言ったらいいの? 私はうまく言い表せない……とにかく恐ろしいことになるんです……/戦争が終わってトゥーラの家に帰りました。夜ごと悲鳴を上げていました。夜は母と妹が一緒にそばにいてくれました。私が自分の悲鳴で飛び起きたからです」(上級軍曹・砲兵中隊衛生指導員)
「私は撃つことに決めたの。そう決心した時、一瞬ひらめいた。『敵と言ったって人間だわ』と。両手が震え始めて、全身に悪寒が走った。恐怖のようなものが……。今でも、眠っているとき、ふとあの感覚がよみがえってくる……。ベニヤの標的は撃ったけど生きた人間を撃つのは難しかった。銃眼を通して見ているからすぐ近くにいるみたい……。私の中で何かが抵抗している。どうしても決心できない。私は気を取り直して引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうか分からない。そのあとは震えがずっと激しくなった。恐怖心にとらわれた。私は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった」(兵長・狙撃兵)
「私の病室には負傷者が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばに行って『気分はどうですか?』と訊くと、『俺はいいが、こいつはだめだ』と戦車兵が答えます。『でも、ファシストよ』『いや、自分は大丈夫だ。こいつを』/あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっていただけ。二人の間には何か人間的なものが芽生えていきました。こういうことがたちまち起きるのを何度も目にしました」(第五二五七野戦病院・看護婦)
これらはほんの一部にすぎない。21歳で白髪になって戦線から戻ったこと、密告されたこと、退却の途中の店でハイヒールと香水を買った話、ずっと男もののパンツをはかされたのがどんなに嫌だったか、捕虜の少年兵にパンを与え、敵を憎むことができなかったのが嬉しかったとの告白、両足を失った中尉に殺してくれと頼まれたができず、戦後、彼に会うのを恐れて市場に行けなかったこと、スターリンと共産主義の理想を信じていたという述懐、あなたの微笑みが私を再び生きる気にさせたと告白された経験、血の匂いのアレルギーになり、今も赤いものは身体が受け付けないこと、優しい人になるには何十年も必要だったという言葉、捕虜にならないために弾丸を二つ残していたこと、爪に釘を打ち込まれ丸太で身体を引っ張られ電気椅子に座らされた拷問の体験、人を殺したから私は罰を受けているという感覚。人間の悪魔的な面も善良さも、優しさも残酷も、すべてがむきだしになって記録されている。
アレクシエーヴィチはこう書いている。「一つとして同じ話がない。どの人にもその人の声があり、それが合唱となる。人間の生涯と同じ長さの本を書いているのだ、と私は得心する」。
ここに登場するかつてのソ連人は、現在はロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、タジク人といったふうに、いくつもの国に分かれて暮らしている。彼女たちのほとんどは自ら志願して軍隊に入っている。彼女たちに兵士や看護師として前線で戦うことを決意させたのは何だったのか。国家、民族、思想、故郷、家族……言葉にすればそういうものになる気持や感情がこの本には散りばめられている。アレクシエーヴィチはそれらを一つの流れに収斂させず、彼女らの言葉をそれぞれの肉声を保ったまま、広大な海のように読者の前に広げてみせた。
にしても、かつてナチスに対し共に戦った兵士たちの息子や娘が現在は侵略する側と侵略される側に分かれて血を流しているのは歴史の皮肉というか、悲劇としか言いようがない。アレクシエーヴィチ自身はウクライナ人の祖父とベラルーシ人の祖母を持つ。ずっとベラルーシに暮らしていたが、現在はドイツに移り、ロシアのウクライナ侵攻を批判するノーベル賞受賞者の共同書簡に名を連ねている。(山崎幸雄)
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