| 書籍名 | 社会主義都市ニューヨークの誕生 |
|---|---|
| 著者名 | 矢作 弘 |
| 出版社 | 学芸出版社(188p) |
| 発刊日 | 2026.01.01 |
| 希望小売価格 | 2,420円 |
| 書評日 | 2026.03.18 |

20年近く前、ニューヨークに1年間住んだことがある。だから、その後のニューヨークがどう変わったのか、いまどうなっているのかに興味がある。昨年11月に市長選挙があり、インド系イスラム教徒で民主党左派のゾーラン・マムダニが市長に当選した。保守系メディアは彼を「社会主義の急進派」と呼び、トランプは「極左」と罵った。それはマムダニがDSA(The Democratic Socialist of America)という団体のメンバーであることから来ているらしい。もっとも『社会主義都市ニューヨークの誕生』の著者・矢作弘によれば、マムダニが掲げる都市政策は「ヨーロッパの社会民主主義レベルのリベラル」とのことだ。
著者は、ジャーナリストを経て社会学(都市政策)を専門とする研究者。本書はマムダニ新ニューヨーク市長の登場を受けて出版された。マムダニはいきなり表舞台に躍り出たわけではない。その背後には、大都市ニューヨークにどんな変化と、そこに至るどんな伏流水が流れていたのか。
民主党の市長候補となったマムダニが掲げたキャッチは「アフォーダブル(暮らしやすい)ニューヨーク」だった。具体的には、次の三つにまとめられる。
(1)高騰する家賃の凍結
(2)公共バス、子供保育、市立大学の無償化
(3)最低賃金の引上げ
その財源として、富裕層・大企業への課税を強化する。
当初は知名度が低く、民主党主流派も傍観して支持率は低かったが、10万人のボランティアを集め、SNSを駆使して支持を広げ、最終的に共和党候補と無党派の前州知事を破って当選した。支持の中核となった層は労働者からアッパーミドルまでと幅広く、アフリカ系、ヒスパニック、アジア・アラブ系からも票を集めた。年齢的にはミレニアム世代(1980~90年代前半生まれ)、Z世代(90年代後半~2000年代生まれ)の若い層が多かった。
この結果を逆から見れば、この階層・世代の多くがニューヨークに住むことに「暮らしにくさ」を感じていた、ということだろう。例えば、今回の選挙で最大の争点になった家賃を見てみる。マンハッタンのワンルーム・アパートの家賃(月額)の中央値は4,200ドル(1ドル=155円として651,000円)だった(2023年)。市の補助で低中所得者に提供する「アフォーダブル住宅」でさえ、2024年に提供された24,000戸の家賃中央値は3,000ドル(同465,000円)以上だった。家賃の支払いが所得の50%を超える「住宅貧困所帯」が多く、市内から郊外へ、他州へと逃げ出してゆく。あるいは家賃を払えずホームレス化し、シェルター暮らしとなる。マムダニの政策は、高騰する家賃を現行水準(日本に暮らす感覚では、現行でもとてつもなく高いが)で凍結しようというものだ。
こんなふうに家賃が高騰した背景には、1980年代から進行したジェントリフィケーションと呼ばれる都市再開発の歴史がある、と著者は言う。ニューヨーク市の財政は、住民の郊外への移動に加え製造業が疲弊したことから、1970年代に破綻した。公共施設や空家となった建物は荒れ果て、犯罪やドラッグの温床となった。僕が初めてニューヨークを訪れたのは1980年代。「夜の地下鉄に乗るな」と言われたのは、この頃のことだ。
荒れた市街地を再生させるため、後にジェントリフィケーションと呼ばれることになる「街区再活性化制度」が生まれた。老朽化した住宅や店舗を修繕し、緑化を進める。マンハッタンのソーホー、トライベッカ、ロウアー・イースト・サイドで町の変貌が進み、不動産業者もそれを歓迎した。この時期を、著者は初期のジェントリフィケーションと呼んでいる。
21世紀になって、ジェントリフィケーションは全く新しい段階を迎えた。ウォール街の金融資本が膨れ上がり、GAFAを中核とするビッグテックがニューヨークにやってきて、それが成長エンジンとなり大規模な再開発が進行した。高額所得者が増え、彼らのため高級コンドミニアムや高層マンションが次々に建設された。その動きはマンハッタンから周辺のブルックリンやクイーンズへも波及した。住宅価格や家賃が高騰し、中下層の住民の暮らしはどんどん苦しくなった。彼ら、特にアフリカ系やエスニック・コミュニティの住民が支持することで、「労働者のための経済社会システム」を主張するDSAが大きくなった。現在では州議会に9人のDSA議員がいる(連邦議会下院のオカシオ=コルテスもDSAが支援)。
ところで、僕がニューヨークに住んだのは2007年から08年。ブルックリンのダウンタウンに隣接する、フォート・グリーン地区にある14階建てアパートのワンルームを借りていた。リーマンショックで世界経済が不況に陥る一方、本書によればジェントリフィケーションが新しい段階を迎えていた時期。そのころのことを思い出してみたい。
住んでいたワンルーム(といっても3人は泊まれる広さ)の家賃は1,200ドル(光熱費込み。当時の平均レート1ドル=118円として141,600円)。マンハッタンで同じような部屋(ドアマンがいて安全が確保される)の家賃が1,500ドル以上だったので予算をはみだし、比較的安いブルックリンに決めたのだった。ノートを見ると、ある月の生活費に2,411ドルかかっているから、住宅費がちょうど「貧困ライン」の50%。他に交通費(地下鉄・バス1か月乗り放題パス)76ドル、食費487ドル(朝夕食は主に自炊)、TV・ネット・電話代129ドルがかかっている。
買い物は、アパートの近所に以前はスーパーがあったが、「ダウンタウン・ブルックリン」という大規模再開発計画のために取り壊され、徒歩圏内にはインド人や韓国人経営の小さな個人店しかなかった。ブルックリン橋に通ずる広い道路を渡ってダウンタウンに入ると、アフリカ系、インド系、カリブ系、ヒスパニック、インド系と雑多な人びとがひしめいて、白人は少数派だった。
市街地には空地や無人のビル、シャッターの閉まった店も多く、マンハッタンから地下鉄で帰ると、ちょっと寂れた下町という感じがした。それでもジェントリフィケーションは進行しており、ブルックリンを代表する高層建築である元ウィリアムズバーグ貯蓄銀行はコンドミニアへの改装工事が進み、ブルックリン橋近くにも高層マンションが建築中だった。
ブルックリンはもともと港湾都市。北米各地から物資が船舶輸送され、その原材料から製造・加工する工場が並ぶ、ニューヨークの後背地だった。船舶輸送がすたれ、製造業もつぶれてブルックリンは衰退し、やがてニューヨークのひとつの区に組み込まれた。
アパートからバスで20分ほど行くと、港湾・工場地帯だったレッド・フックという地域がある。ここはジェントリフィケーションが始まったばかりで、港に面した倉庫がひとつだけ改装され、1階はスーパー、その上はコンドミニアムになっていた。スーパーでテイクアウトしたランチを埠頭のテーブルで食べると、沖に自由の女神が見えた。そこから海沿いに無人の倉庫群の前を歩くと、ぽつんとひとつだけIKEAの巨大な店が営業していた。マンハッタンからはIKEA行きのボートが運航されているという。
近くを流れるガヴォナス運河沿いは工場地帯。閉鎖された無人の工場が延々と続き、歩いても歩いても誰とも出会わず、不安になったものだった。いま、グーグル・マップのストリート・ビューでこの辺りを見ると、工場を改装したイベント施設やショップ、新しいレストランがぽつりぽつりとある。僕が住んでいたアパートの周囲は再開発され、高さ325メートルの巨大な超高層ビル「ブルックリン・タワー」が建っている。
レッド・フックから北へ、イーストリバーを遡るとブルックリン橋とマンハッタン橋に挟まれたダンボ(DUMBO)という地域がある。かつての倉庫群が並んでいるが、レッド・フックに較べると格段にジェントリフィケーションが進んでいた。倉庫だった建物はコンドミニアムに改装され、しゃれた店舗やレストランができていた。公園もきれいに整備されている。古くから住む住民にはどうか分からないが、僕のような一時的滞在者にはこんなふうに整備された場所はありがたく、よくここまで散歩して、対岸のマンハッタンの高層ビルを眺めながら「ビレッジ・ヴォイス」を読んだりしたものだ。いまはブルックリンを代表する観光スポットになっている。
本書に戻ろう。現在のニューヨークは住宅や家賃だけでなく、物価、交通費、医療費、教育費などすべてが高騰し、普通の暮らしを送るのに必要な年収(夫婦と子供2人)は、マンハッタンで167,000ドル(25,885,000円)に及ぶという(2025年)。いくら円安とはいえ、日本に暮らす感覚では、少数の富裕層でしか届かない金額。その年収を得るためには、夫婦2人が時給34ドルで働く(1日8時間、週6日)ことが必要だ。マムダニは最低賃金として時給30ドルを提案しているが、それでも「普通の生活」に届かない。マムダニが当選した背景には、そうした「中間所得階層以下」の大きな不満があったということだろう。
実際、ニューヨークだけでなく、ボストン、ロサンゼルス、シカゴでもマムダニの提案と同じような都市政策が採用されているという。「マムダニ現象が異変ではなく、晴天の霹靂でもない、という証左である。トランプの対極に、進歩主義都市の潮流が育まれている」と、著者は結論づけている。
ところで、アメリカではなくこちらの国では、先ごろの選挙でリベラル派が壊滅に近いほどの小さな勢力となった。そこからの回復の道筋は見えないけれど、本書の「マムダニ現象」の分析は、この国のリベラル派には何が足りなかったのか、どんな層のどんな不満に応えられなかったのか、といったことどもを裏側から照らしだしているように思える。(山崎幸雄)
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