誤訳の構造【中原道喜】

誤訳の構造

翻訳に誤訳はつきものである


書籍名 誤訳の構造
著者名 中原道喜
出版社 聖文新社(264p)
発刊日 2003.4.1
希望小売価格 1800円
書評日等 -
誤訳の構造

“誤訳おもしろ本”とでも呼べそうな本が何冊も出ている。他人の間違いを笑うのが楽しいのは、哀しき人間の性。ましてプロフェッショナルがその仕事の間違いを指摘されるのを観客として見物するのは、人の失敗をあざ笑うバラエティー番組を見ているようなものだ。しかも、観客のほとんどは英語に苦しめられた体験をもっている。

「誤訳の構造」は、そうした“誤訳おもしろ本”とははっきり一線を画している。教育系の専門出版社から出された専門書だし、もとは英語雑誌に掲載されたものだから、読者として翻訳家や英語教師などプロフェッショナルを想定している。プロがプロを対象にした仕事なのだが、でも僕のようなアマチュア(?)が読んでも興味深く、教えられるところが多かった。

 著者はまず、「翻訳に誤訳はつきものである」と述べる。

 翻訳という仕事は、ひとつの文化コードに属する言葉を別の文化コードに属する言葉へと変換する作業だろう。そして翻訳者が両方の文化コードに対してネイティブでありえない以上、その変換にミスは避けられない。

 だから「誤訳は遍在する」のだ。じっさい、「これ以上の翻訳は望めないと思われる見事な訳業」にも誤訳はある。その例を、著者はいくつか挙げている。でも、それは誤訳の程度の問題でもある。「すぐれた訳業の価値を毀損しない」誤訳もあるし、「翻訳の不良な質の指標」になるような誤訳もある。

 そんな姿勢を明らかにし、さらに“おもしろ本”にしないために「出典を示さない」(翻訳者を明らかにしない)と断ったうえで、著者は200近い誤訳の例を21パターンに分類している。そこでの著者の武器は、文化コードの重要な要素のひとつである文法への精通だ。

 例えば、こんな具合。

「[例]  The feeling was the strongest he knew. He felt <he could kill> the bankers.

[訳] だが彼にあってはこれほど激しい感情を抱いた例は他になかった。彼は銀行家を<殺すことくらい自分にだってできる>と思った。

[解説] 助動詞は曲者である。それこそ訳文を殺しかねない。canにかぎらずwill, shall, may の過去形には仮定法的用法がある。最も一般的な場合は、「もし差支えなければ」といった気持ちが加わる、控え目、丁寧な表現である」

 著者はこの後、may とmight の具体例を挙げて説明したうえで、この[例]の誤訳を指摘する。

「ところで、上のような場合のcouldは「~できる」という能力ではなく、「できれば~してやりたいくらいだ」の意を表し、殺してもあきたりない気持を述べている」

 さらに著者は[注意]として、同じようなcouldの用法を例をあげて補強し、couldとwas able toの区別についても解説する。またcouldを使った間違いやすい慣用表現にも触れるという念の入れよう。

 こんな厳格で徹底した叙述のスタイルから、中原道喜という名前に思い当たる人もいるにちがいない。大学受験のとき、著者の参考書のお世話になった人もいるはずだ(僕も、僕の娘もそう)。最近出た「レクサス英和辞典」(旺文社)の執筆者として知っている人もいるかもしれない。英語教育の世界では名の知られた存在なのだ。

 最初に触れたように、これは“おもしろ本”ではないけれど、挙げられた例を読んでいくと、なるほどねとうなずいたり、思わずにやっとしてしまうような誤訳もある。いくつか挙げてみよう。

「[例]  I hope he doesn't lose, he's a <bad> loser.

[訳] 彼負けなければよいけど。<下手>なのよ!

[解説] 玉突きをしに行った夫についての妻の言葉。a good loser とは「負けっぷりのいい人、いさぎよい敗者」であり、a bad loserはその反対で「負けてぶつぶつ言ったり、未練がましかったりする人」のことである。彼女の夫はその種の人間で、「負けると後が大変なの」で、勝たせたがっているのである」

 a bad loserとは簡単な言葉だけど、むずかしい。解説を読んで納得する。次の例は、常識さえあれば高校生でも指摘できそうな誤訳。

「[例]  Beside him is a champagne bottle in an ice bucket from <which> he has obviously been drinking.

[訳] 彼の横には、彼が今まで飲んでいたとおぼしき氷のバケツがあり、シャンペンのビンがはいっている。

[解説] 一般に関係代名詞はその直前の名詞を先行詞とするのがふつうであり、またバケツから水を飲むことも時と場合によってありうるわけだが、この文ではやはりwhichの先行詞はbottleで、彼は、氷が溶けた水ではなく、シャンペンを飲んでいたと解するのが妥当である」

 巧まざるユーモア。このつつましやかなユーモア感覚が著者の文章の持ち味であり、そのことがこの本を誤訳をあげつらう姿勢から遠いものにしているように思う。

 翻訳者の実力は日本語の力によって決まる、という言い方がある。確かにその通りだと思うが、こういう誤訳の例を見ると、日本語の力も原語を正確に理解する英語力あってのものだ、という当たり前のことに気づく。

 ところで、著者は出典を明らかにしていないから正確には分からないが、引いてある例には小説が多い(僕が200例のなかで分かったのは、マルカム・ラウリーの「活火山の下」だけだった。トホホ)。しかも、文学というよりはミステリーなどのエンタテインメント系が多いようだ。

 それは、このところ刊行される翻訳本には圧倒的にミステリーが多いという出版事情によるのかもしれない。そのジャンルから多くの例が引かれているということは、数多い新刊に対応するために次々に生まれる若い翻訳者の実力に、著者がひそかな懸念を抱いているということかもしれない。

 出典を明らかにしない誤訳の例もそうだが、出典を明かして「注意」や「解説」に引かれているものも、圧倒的に文学・小説類が多い。シェークスピアの古典から、ジョージ・オーウェル、ノーマン・メイラー、マルカム・ラウリーのような現代文学、アガサ・クリスティー、エルモア・レナードをはじめとする数多くのミステリー、またトム・ウルフのニュー・ジャーナリズムと、その幅の広さに驚く。

 端正な姿勢を崩さない記述の背後にうっすらと見えてくるのは、そんな無類の本好きの素顔なのだ。(雄)

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